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「桂川原の戦い」高国軍が敗退し、新たに堺公方政権が誕生か!?
──大永7年(1527年)

管領の細川高国が、自らの行いで家臣の謀反を招き、さらにかつて後継者争いで葬った細川澄元の子・晴元も挙兵して「桂川原の戦い」が勃発。この戦いの結果、高国政権は崩壊し、新たに晴元と彼に擁立された足利義維による暫定政権が樹立されることに…。

合戦マップ

時期大永7年(1527年)2月12~13日
勢力波多野稙通・三好勝長 vs 幕府・細川高国
場所京都桂川原一帯。

戦いの背景

実子のなかった細川政元が暗殺されると、3人の養子による後継者争いが勃発。最終的に勝者となった細川高国が永正18年(1521年)に室町幕府の第12代将軍として足利義晴を擁立し、畿内の勢力確立に成功した。

しかし、高国は大永6年(1526年)に細川尹賢の讒言を信じて重臣の香西元盛を謀殺したことから、元盛の兄の波多野稙通と柳本賢治が丹波八上城と神尾山城とそれぞれ謀反を起こす。 同年10月に高国はそれぞれの城に兵を派遣したものの、神尾寺城包囲の細川尹賢軍がなんやかんやで敗北すると、それを知った八上城の包囲軍も退却をはじめた。

なお、家臣の三好元長に擁立された13歳の細川晴元は、このときに波多野氏から連絡を受けて三好勝長や三好政長らを四国から出陣させている。八上城の包囲軍の池田弾正は晴元と通じており、退却の途中で一斉に細川尹賢軍に矢を射かけるなどしており、同年内までに晴元軍は畿内まで進出した。晴元にとって高国は父の仇であったのである。

12月13日には三好軍が摂津中嶋城を制圧。年明けの大永7年(1527年)には三宅城・茨木城・太田城・安威城・福井城・芥川山城といった高国の諸城を次々に攻め落としていったとみられる。一方の波多野軍も2月4日には山崎城を陥れ、11日には同城で三好軍と合流した。

これに対し、高国方はこれまで近江守護の六角定頼、播磨守護の赤松晴政、尾張守護の斯波義統、若狭守護の武田元光などに援軍要請をしてきたが、これに応じて出陣してきたのは武田元光の軍勢だけである。こうして同12日には桂川を挟んで両軍が対峙することになる。

戦いの経過・結果

高国軍は桂川の東岸沿いに主力部隊をびっしりと敷いて、その背後に将軍義晴の軍勢が待機。武田元光軍の軍勢は本陣から北側に着陣した。夜中から矢の応酬で合戦が開始となる。

翌13日、桂川の西岸から波多野軍と柳本軍が渡河し、激しい衝突になるかと思われたが、実際にはそこまで交戦することがなかった。というのも、波多野軍と柳本軍の狙いははじめから後詰めの武田軍だったのである。

主力部隊が戦っている中、三好勝長軍が後詰めの武田軍にいきなり襲い掛かると、武田軍はまたたくまに敗走することに。武田軍は80名も死者を出すという大打撃を受けた。高国はこの危機を知って自ら救援に向かったが、三好軍の猛攻はとまらず、雑兵300名に馬廻衆10名前後が討ち取られ、たまらず撤退したという。
一方で、このときそれまで日和見主義を貫いていた六角軍が動きだして柳本軍に襲い掛かったという。これによって柳本軍は打撃を受け、波多野軍と三好軍も80人以上の戦死者が出るという被害をこうむった。三好勝長も瀕死の重傷を負ったという。しかしながら合戦は最終的に波多野・三好・柳本軍の勝利に終わった。

戦後の影響

この戦いで大敗となった高国や将軍義晴らは14日に坂本に逃げ去り、武田元光も若狭に退いた。 将軍が落ち延びたこと自体はこれまでにもあったが、このときは将軍だけでなく評定衆や奉行人も逃げ出したため、京都幕府が崩壊という前代未聞の出来事だったようだ。

京都に幕府が一時的になくなったおとで、柳本賢治が山崎城を居城にして京都を支配することになる。それと同時に晴元と三好元長が義晴の弟である足利義維を擁立して拠点を堺に定め、一時的に政権を確立。義維は堺公方と呼ばれ、以後5年間は義晴に代わって幕政を担ったとみられる。





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