丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「山科本願寺の戦い」恐れられた一向宗。入京の噂が元で叩かれる!
──天文元年(1532年)

この戦いは法華宗と一向宗の対立に、一向宗に脅威を覚えた室町幕府管領の細川晴元が絡んで、山科本願寺を舞台に細川・法華一揆連合と一向一揆衆が激しく衝突した戦いで、山科本願寺合戦とも呼ばれている。

合戦マップ

時期天文元年(1532年)8月23-24日
勢力山科本願寺 vs 細川晴元六角定頼
場所山科本願寺

合戦の背景

戦国時代には大名や武将たちだけでなく、宗教勢力が大きな軍事力を持っていた。その代表格が本願寺で、一向宗の名で知られている。織田信長と対立した大坂の石山本願寺は、寺でありながら城砦でもあり、この地に10年間立て籠もって信長と激闘を繰り広げたのは有名だろう。

ライバル関係にあった一向宗と法華宗

この本願寺が石山に移る前に本拠としていたのが、京の都のすぐ東に位置する山科である。山科本願寺と呼ばれ、約50年の間一向宗の法主がこの地を拠点とした。戦国大名の居城と同じ意味合いがあり、寺とその周囲に作られた寺内町は、さながら城と城下町の様相を呈していたと考えられている。

大名同士の争いのように、宗教勢力同士もしばしば武力を催して戦闘を繰り広げた。本願寺のライバルが法華宗であり、彼らは当時急激に民衆の支持を得て巨大化してきた本願寺一向宗に脅威を覚えていたのである。

宗教勢力が民衆を巻き込んで蜂起することを一揆と呼び、一向一揆、法華一揆と称する。この一揆に大名勢力が加担して、戦闘が大規模化するケースが戦国時代によく見られた。山科本願寺の戦いはそうした一例である。

晴元は最初、一向宗を利用するが…

この戦いの2か月前の天文元年(1532年)6月、第10代本願寺法主の証如は晴元の援軍要請を受け入れて、門徒と呼ばれる一向宗信者を大量動員して晴元軍を援助。飯盛城の戦いでは、この一向一揆軍が力を発揮。敵対する畠山義堯三好元長らを討ち破っている。その後、逃亡する三好元長軍を追い込む際に、門徒の数はだんだんと膨れ上がり、10万にも至ったという。こうした状況に晴元らは本願寺勢に脅威を感じるようになった。

そこで晴元は、7月に蜂起した法華一揆と手を結び、手のひらを返して一向一揆と敵対する。一向一揆は下層民衆の熱烈な支持を受けており、大名や武将にとってコントロールしにくい一面を持っていた。一向宗の力を借りて一旦は勝利を得たものの、その底知れぬ実力を間近で見た晴元が彼らを脅威と捉えたのは、特権階級の当然の心理だったかも知れない。

戦いの経過・結果

破竹の勢いを見せていた一向一揆側も、ためらうことなく晴元側との戦いに移行した。8月2日には晴元方の武将・木沢長政と衝突。晴元の配下で急速にのし上がってきた長政は、権謀術数に長けていた武将で、この時は武略にも才を示した。実数は不明ながら膨大な兵数だったと思われる一向一揆の攻勢を凌ぎ、勢いを食い止めることに成功している。

これを受けて晴元側に情勢が傾く。8月初旬から中旬にかけ、洛中洛外を中心に法華一揆が大軍を動かし、各処で一向一揆勢を撃ち破った。一向宗は摂津からの援軍が京都周辺に向かうが、これも法華一揆が撃退。こうして都のすぐ近くにある山科本願寺を、晴元・法華一揆連合軍が攻撃する態勢が出来上がっていった。

3万とも4万とも言われる連合軍によって山科本願寺は包囲され、同24日の午前10時ごろから攻撃が開始された。最大兵力の法華宗は東の粟田口から、晴元家臣の柳本賢治が南の汁谷口から、晴元の同盟者である南近江の大名・六角定頼が西側から、更に周辺から駆り出された民衆勢力が北の東岩倉山から乱入し、瞬く間に勝敗は決したと伝わっている。和睦交渉で一向一揆側が油断していた隙を突いたともいう。
山科本願寺は寺内町を含め全てが焼かれ、灰燼に帰した。

戦後

山科本願寺の戦いの時、法主の証如はまだ17歳だった。叔父の実従らに守られ、寺宝と共に焼亡する本願寺から命からがら逃げ延び、大坂へ移っている。一方、勝利を収めた法華一揆も、大名勢力からすれば厄介な存在なのに変わりはなく、天文5年(1536年)には晴元家臣の長政の策略で京都市中での戦闘で壊滅させられている。

本拠地を焼かれた一向宗だったが、下層民衆の支持を集め続けて勢力を拡大し続けた。交渉で晴元方との対立を徐々に解消して政治的地位を安定させると、証如が移った大坂に新たな拠点を築いていく。これが石山本願寺である。
山科での敗北を苦い教訓とした一向宗は、石山本願寺を難攻不落の巨大要塞に作り上げた。寺内町としての成長も著しく、全国の門徒が憧れる聖地かつ巨大都市国家になった本願寺は、約50年のちに信長を大いに苦しめる石山合戦の舞台となるのである。

本願寺が心血を注いで軍事・経済・交通の要衝の地に成長させた石山の地は、信長によって焼き払われた後、豊臣秀吉が引き継いで大坂城を築いた。徳川の世になると水運を利用した日本一の商都となり、現在の大阪市の繁栄につながっていく。そうした流れの始まりにある山科本願寺の戦いは、巨大都市大坂が生まれるきっかけとなった歴史的な出来事と言えるだろう。





関連ワード


おすすめの記事

 PAGE TOP