丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「太平寺の戦い」幕府軍に討たれた木沢。下剋上で敵を作りすぎた!?
──天文11年(1542年)

太平寺の戦いは、細川晴元政権で暗躍した木沢長政が、三好・畠山・遊佐連合による幕府軍に討伐された戦いである。

合戦マップ

時期天文11年(1542年)3月17日
勢力細川晴元・畠山稙長 vs 木沢長政
場所太平寺周辺(現在の大阪府柏原市太平寺)

合戦の背景

かつての天下人・細川高国を滅ぼし、中央政権の実権を握った細川晴元だが、堺公方を擁立していたにもかかわらず、高国派の将軍足利義晴と和睦しようとしたため、重臣の三好元長らと対立。天文元年(1532年)飯盛城の戦いでは、一向一揆と手を結び、暗躍する木沢長政の討伐に向かった畠山義堯・三好元長らを討ちとっている。

父元長を亡くした三好長慶は母と共に阿波へ逃れたのち、天文3年(1534年)には仇の晴元や分家の三好政長に合戦を仕掛けた。しかし木沢長政の仲介により、一旦は恨みを忘れて晴元の家臣となる。ただ、表面を取り繕った和睦だったこともあり、その間にもいざこざは絶えなかった。実際、天文8年(1539年)に長慶は晴元打倒の兵をあげているが、このときは将軍義晴や六角定頼の仲介で和睦となっている。なお、このときの和睦条件で摂津の越水城を与えられている。以後、長慶の勢力は摂津を拠点として、畿内に急速に勢力拡大していくことになる。

こうした中、天文10年(1541年)8月に、かつての晴元の政敵・細川高国の妹婿にあたる塩川政年を攻めるべく、晴元の命を受けた長慶らが一庫城を包囲。しかし、塩川の姻戚関係にあった摂津の有力国人である伊丹親興や三宅国村がこれに反発し、10月には木沢長政も加わって晴元や長慶と対立するようになる。

その後、木沢軍は一庫城へ向かったのち、衝突を避けて撤退した三好軍を追って越水城を攻囲した。しかし木沢の専横ぶりに嫌悪感をもった将軍義晴は京から近江坂本まで退去、晴元も京都郊外の岩倉に退去したことで幕府の敵となる。

合戦の経過・結果

晴元がついに木沢討伐に動き出す。河内守護代の遊佐長教のほか、畠山稙長や石山本願寺の証如と連携をとって、木沢討伐の準備を進めると、同12月8日には晴元自らが出陣して芥川山城へと入城する。これに対して、木沢軍も笠置城を出陣して木津川を下って井出(現在の京都府井手町)あたりに布陣。両軍は対峙してそのまま年を越す。

天文11年(1542年)の3月、遊佐長教が晴元・長慶らに味方することを表明したことで、木沢が擁立した河内守護の畠山弥九郎は高屋城を出て信貴山城へと逃亡。これにより、高屋城を接収して畠山稙長を迎えた。
これを知った木沢はすぐさま陣払いして二上山城へ入り、一方で晴元から救援に向かうように命じられた三好軍も芥川山城から南下していた。

そして3月17日、高屋城からの畠山稙長先発隊と、二上山城からの木沢偵察隊がついに激突。これをみて劣勢と判断した木沢は、援軍を期待したのか二上山城から7割ほどの兵力を前線に投入したが、その思惑はもろくも崩れ去った。戦地に駆け付けたのは、援軍ではなく、敵の三好軍だったのである。

側面攻撃を受けた木沢軍はまたたく間に崩れ、木沢長政はあわてて飯盛山城に全軍退却を命じるも、三好・遊佐軍の追撃をかわしきれず、最期は討死となった。

戦後

河内国では半国守護の制度は取り止めとなり、畠山稙長が河内国守護となる。
木沢氏はこの戦いで長政の他に一族の多くも戦死したが、その残党はのちに細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて挙兵すると、これに結びついて晴元に敵対していった。また、長慶にとって晴元と三好政長は父の仇であるため、やがて決裂の日を迎えることになる。





おすすめの記事

 PAGE TOP