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「舎利寺の戦い」戦国時代突入以来、畿内で最大規模の合戦。
──天文16年(1547年)

舎利寺(しゃりじ)の戦いは、現在の大阪府生野区舎利寺を舞台に、細川晴元・三好長慶らの軍勢と、細川氏綱・遊佐長教連合軍が激突した戦いである。これは応仁の乱以来、畿内における最大規模の合戦とされている。

合戦マップ

時期天文16年(1547年)7月21日
勢力三好長慶 vs 細川氏綱
場所舎利寺付近(現在の大阪府生野区舎利寺一帯)

合戦の背景

明応2年(1493年)明応の政変によって細川政権が誕生して以降、管領・細川家による中央政権の掌握は不安定ながらも長らく続いていった。

永正4年(1507年)に細川政元が暗殺されると、細川高国細川澄元による家督、および管領職を巡る争いが勃発。ここから政権奪取の連続となっていく。

永正17年(1520年)に澄元が病没してからは高国政権がしばらく続いたが、澄元の遺児である細川晴元大永7年(1527年)桂川原の戦いに勝利すると、足利義維を擁立して「堺公方府」という新たな幕府が創設される。そして享禄4年(1531年)大物崩れにより、再挙を図った高国がついに葬られた。
これで事実上は晴元が政権を掌握することになるが、彼はその後の内部対立で家臣を討つなどしたため、のちの政権崩壊の火種をまいてしまう。そして天文11年(1542年)に、高国の養子である細川氏綱が挙兵して以降、高国方の残存勢力との戦いにまみれることになる。

その氏綱は、挙兵以降ゲリラ戦を展開していき、天文15年(1546年)に河内守護代の遊佐長教と同盟を結ぶ。長教は畠山尾州家を下剋上によって事実上掌握した人物であり、彼はその力を背景に晴元を弱体化させる機会をずっと狙っていた。そうしたところ、氏綱から同盟の提案があったので、これを積極的に支援することにしたのである。

氏綱・長教連合は、氏綱が畠山家の居城・高屋城に入城して晴元討伐の準備を着々と進め、続いて堺に入って迎撃準備を進めていた三好長慶らを奇襲攻撃で退かせた。さらには三宅国村や池田信正などの摂津国人をも仲間に引き入れて、晴元方の諸城を次々に陥落させていった。
このように晴元方の連戦連敗で戦局は推移していたが、長慶の弟である三好実休安宅冬康・十河一存らの援軍到着により、反撃の狼煙があげられる。

合戦の経過・結果

同年11月、長慶のいる越水城に細川晴元をはじめ、次々と援軍が集結してその兵力は2万人を超えた。

天文16年(1547年)に入ると、2月20日に摂津の原田城、3月22日に三宅城を攻略。一方で同29日には12代将軍足利義晴が勝軍地蔵山城に入って氏綱・遊佐連合を支援している。

ただ、晴元方は4月に六角定頼からの援軍も得て、6月には芥川山城と池田城を攻略するなど、摂津国における勢力を回復して圧倒的な有利に立った。なお、芥川山城はかつて長慶が晴元を攻めたときに奪取した城であったが、長教軍から攻撃を受けたときに三好政長が救援に向かっていたものの、あえなく降参していた。長慶にとって芥川山城の奪還にはそれなりの思い入れがあったであろう。

やがて晴元方が入京すると、7月19日に将軍義晴が勝軍地蔵山城に火を放って近江へ逃亡。晴元は都を奪還することに成功する。 その後、晴元方は高屋城にいる氏綱・遊佐連合軍を討つべく、21日に榎並城に集結して南下。一方、氏綱・遊佐連合もこれを迎撃するために北上したところ、現在の大阪府大阪市生野区にあたる舎利寺付近で両軍が激突となった。

合戦は数時間にもわたり、当初は畠山尚誠や松浦興信が勇猛ぶりを発揮して氏綱・遊佐連合軍が優勢だったものの、両軍ともに多くの戦死者を出して、最終的には晴元方の勝利に終わった。『二条寺主家記抜粋』によると、両軍で2千もの兵士が討ち死にしたと書かれている。

戦後の影響

氏綱・遊佐連合軍の敗戦の知らせを聞いた将軍義晴は大いに落胆して、晴元と六角定頼に使者を派遣して和睦を結び、帰京した。
その後も三好軍は高屋城に逃げ戻った氏綱・遊佐連合を追撃し、結局、翌天文17年(1548年)の4月まで、概ね8ヶ月間も包囲したらしい。両軍勝敗はつかずに六角定頼の仲介により、三好長慶が遊佐長教の娘を娶る形で和睦成立となった。なお、この戦いを経て、三好長慶の実力が畿内に知れ渡ることになった。





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