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「江口の戦い」長慶が父の仇を討って幾内を掌握。新政権誕生へ!
──天文18年(1549年)

江口の戦いとは、三好長慶が細川晴元政権を倒し、事実上の三好政権を誕生させた戦いである。

合戦マップ

時期天文18年(1549年)6月12-24日
勢力三好長慶 vs 三好政長
場所摂津国・江口城(現在の大阪府大阪市東淀川区)

合戦の背景

幕政を牛耳った権力者・細川晴元に重用されていた2人の三好氏。その1人が三好宗家当主の三好長慶で、もう一人が分家の三好政長である。この戦いの火種は、彼らの関係性にある。晴元と政長の2人は長慶にとって父・三好元長の仇であったのだ。

天文3年(1534年)、13歳となった長慶は、晴元討伐の兵をあげて戦うも、最終的に和睦となり、以後は晴元の家臣となる。なお、当時の政長は、すでに政権内で重鎮の地位を得て、父元長の所領であった河内十七箇所も支配していた。
こうした状況の中、天文8年(1539年)になって長慶は異を唱え、晴元・政長と小競り合いを起こすが、12代将軍足利義晴の調停によって一応は和睦となる。このころ長慶の軍事力は強大となっており、天文11年(1542年)太平寺の戦い天文16年(1547年)舎利寺の戦いで武功ををあげるなど、晴元に重用されて政権の中心人物へと躍り出る。

そして、ついに長慶が2人と決別する出来事が起きる──。

天文17年(1548年)5月、三好政長の娘婿であった摂津国人の池田信正が切腹させられるという事件が発生。これを命令したのは晴元だが、裏で糸を引いていたのは政長だった。
信正はかつて晴元に反抗して一度は許されているのに、切腹させられた。信正の後を継いだのは息子の長正だが、彼は政長の外孫であったため、政長が池田家中を掌握することになったのである。これに摂津国人衆が反発。長慶は主君晴元に政長・政勝父子の粛清を要求するも、これを拒否されると、10月にはついに晴元の敵対勢力である細川氏綱陣営に転じた。

長慶は岳父の遊佐長教に出兵を求めつつ、自身も出陣。この動きに呼応して和泉にいた松浦興信や丹波の内藤国貞の他、政長に反感を持っていた多くの摂津国人が味方することに。一方で政長も紀伊にいた根来衆や茨木長隆、伊丹親興らに協力を要請して出陣の準備を進める。これによって両者の衝突は避けられなくなったのである。

合戦の経過・結果

10月28日に、長慶は摂津越水城を出発して、政長の拠点である河内十七箇所へ進軍を開始。各拠点で敵を撃破しつつ政勝が籠城する摂榎並城を包囲。これに対して政長は、摂津国人の大半が敵であるため、山城国から丹波に迂回して摂津の北部に侵入。塩川城で兵士を集めつつ、天文18年(1549年)の1月に長慶の支配下にあった池田城を攻撃、さらに伊丹親興の支援を受けて政勝の救援に向かった。

3月、長慶は摂津中嶋城に兵を送ると、柴島城を攻めさせた。この救援にきた政長軍を返り討ちにすると、長慶軍は続けて榎並城を攻囲。一方の政長は一旦伊丹城へと退却した。

こうした中、晴元軍が動き出す。
4月初め、晴元は六角定頼に援軍の約束を取りつけると、その後は政長軍と同じルートで摂津の北部に進軍。同26日に塩川城に入城すると、28日には西宮一帯を放火して後方撹乱した。これに呼応して伊丹城の政長・親興の軍勢も29日に城から出撃し、尼崎を放火。そして5月1日には富松城を攻めるも、落城できずに退却している。

以後、晴元軍は六角の援軍を期待してゲリラ戦を展開。摂津の城を転々として戦っており、政長と晴元の2人は5月末には三宅城に入っていたようだ。一方、長慶軍はいまだ榎並城を陥落できずに包囲を続け、戦線は膠着状態にあった。しかし6月11日、政長が息子の救援に向かうべく、三宅城から江口城に移ったことで事態が大きく動くことになる。

一方、長慶軍はいまだ榎並城を陥落できずに包囲を続け、戦線は膠着状態にあった。しかし6月11日、政長が息子の救援に向かうべく、三宅城から江口城に移ったことで事態が大きく動きだした。

政長の目的は、江口城に入って三宅城と榎並城の通路を確保し、六角軍の到着を待つことにあったという。 しかし江口城は淀川と神崎川によって三方向が囲まれており、水路を封鎖されると退路を断たれるという欠点があった。 そして長慶はこれを見逃すことなく、すかさず水路を封鎖して完全包囲し、江口城を孤立させたのである。

翌12日には江口城を舞台に開戦となる。政長は六角の援軍を待ちながら守勢に回っていたが、六角軍が江口城に到着する直前の24日、東西から長慶軍の攻撃を受けてついに崩壊。政長をはじめ、800人ほどが討死となった。

戦後

細川晴元は政長の討死を知ると、翌25日に京都へと逃亡。さらには長慶の追撃を恐れて足利義晴・義輝父子とともに近江坂本まで逃れている。また、政長の子・政勝も榎並城を放棄し、六角軍も撤退している。

7月には長慶は細川氏綱を擁立して上洛を果たし、京都を手中に収めて事実上の三好政権の誕生となった。なお、伊丹親興はその後伊丹城を包囲されるも、籠城して抵抗。結局城を守り抜いて翌年3月に長慶と和睦に至っている。





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