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「中尾城の戦い」三好政権に対する幕府軍の最初の逆襲!?
──天文19年(1550年)

中尾城の戦いは、三好長慶に敗れて京を追われた細川晴元や将軍義輝ら室町幕府軍が、京都復帰のために再挙した最初の戦いである。 幕府軍として実戦ではじめて鉄砲を使用した戦いとしても知られる。

合戦マップ

時期天文19年(1550年)11月21日
勢力三好長慶 vs 幕府軍(足利義輝細川晴元ら)
場所山城国・中尾城(現在の京都府京都市左京区浄土寺)

合戦の背景

かつては主従関係にあった管領の細川晴元と三好家当主の三好長慶。天文18年(1549年)江口の戦いで、長慶は父の仇であった晴元や同族の三好政長らを破り、畿内の権力を掌握することになる。

この戦いで敗戦した晴元は、室町幕府第13代将軍の足利義輝とその父足利義晴を引き連れ、京都から六角定頼のいる近江坂本へ落ち延びた。事実上の晴元政権の崩壊であった。
一方、勝者の長慶は将軍のいない京都において政権を樹立。室町幕府の将軍を担ぎ上げることなく専制政治を行ったことから天下人といわれるようになる。京都の防衛を家臣の松永長頼に一任して自身は畿内の平定を進めていき、和泉国・摂津国を攻撃して自身の支配下に置いていったのである。

こうした状況に危機感を抱いた義晴・義輝父子は、京都復帰をめざして同年10月に京都郊外の東山の裏山に中尾城の建設を開始。天文19年(1550年)5月には、不幸にも中尾城の完成前に義晴が病没するが、父の意思を受け継いだ将軍義輝は打倒長慶に執念を燃やして、6月9日に中尾城へ入場

義輝は父義晴よりも血気盛んな性格で、剣豪として有名な塚原卜伝から直々に指導を受けたらしい。剣術の腕前は相当なもので、家臣誰一人として義輝には勝つことができなかったという。

合戦の経過・結果

7月8日、義輝ら幕府軍がついに出兵。14日には三好長逸や十河一存ら1万8千ほどの三好軍が上洛して市街戦となったが、 幕府軍主力の晴元隊は吉田に、幕府援軍の六角軍も北白川で留まっていたため、両軍小競り合いに終始したという。
なお、『言継卿記』によれば、このとき幕府軍の銃撃で三好軍に戦死者が出たことが伝わっており、実戦による日本初の鉄砲使用例との見方もあるようだ。

小競り合いが続いたあと、11月に三好長慶が積極的な攻勢に出たことで戦局が一変する。

三好軍は同月19日に中尾城付近の聖護院、北白川、鹿ヶ谷などを放火すると、翌20日には慈照寺の周囲も焼き払いながら、松永長頼を近江へ進軍させて大津・松本周辺を放火させた。
この状況に退路を断たれることを恐れた義輝は、撤退を決断し、21日に中尾城を焼いて近江坂本→堅田へと逃亡、六角軍も撤退していった。

戦後

戦後、中尾城は三好軍によって破却された。長慶は京都の平和を確保できたものの、翌年に2度も暗殺未遂に遭ったり、幕府軍が長慶の隙をついて京都を襲撃するなど、たびたび三好政権が脅かされる。しかし義輝や晴元らに政権を奪われることはなく、やがて長慶の勢力圏は全盛期を迎えることになるのである。





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