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「相国寺の戦い」義輝・晴元連合。圧倒的兵力差に成す術なし。
──天文20年(1551年)

この戦いは、三好長慶に京を制圧された13代将軍・足利義輝と細川晴元が、復権に向けて長慶軍と衝突した合戦の一つである。

合戦マップ

時期天文20年(1551年)7月14-15日
勢力三好長慶 vs 細川晴元
場所山城国西陣相国寺(現在の京都府京都市上京区)

合戦の背景

三好長慶に幾内と幕府の実権を奪われ、近江に逃亡していたかつての天下人・細川晴元は、室町幕府13代将軍足利義輝とともに即刻再挙を図り、天文19年(1550年)中尾城の戦いで三好軍に挑んだ。このとき、両軍は小規模な市街戦となったが、後方を脅かされる展開となった義輝が再び近江へ撤退したことで、京都奪回とはならなかった。
その後、幕府不在となった京都において、長慶は京都の治安や公家の保護などを取り行うなど、独自に政権運営をし始める。 しかし、幾内はまもなくして不穏な空気に包まれることになる。

天文20年(1551年)の3月には、将軍義輝が2度にわたって長慶暗殺の刺客を放った。これは失敗に終わるが、身の危険を感じた長慶は京都から山崎へ避難。その間に晴元派の三好政勝や香西元成が丹波から挙兵。京都へ南下して一時は五条通まで進出し、放火して回る事態となった。さらに5月5日には、長慶派で河内守護代の遊佐長教が暗殺される。なお、この事件の黒幕は義輝との説もあり、畿内には緊張が高まっていった。

合戦の経過・結果

こうした中、晴元勢が再び京都へと進撃する。7月14日には政勝・元成らに加えて近隣の土豪であった山本氏や山中氏など、丹波国衆を加えた3千の兵が船岡山、等持院を経て相国寺に着陣した。これに対し、長慶はただちに松永久秀・長頼兄弟を指揮官として摂津・和泉・阿波国など自領から4万もの兵を結集させ、相国寺を包囲する。

戦う前から10倍以上の兵力を擁する長慶軍の勝利が目に見えていた。合戦は翌日の明け方まで繰り広げられたが、衆寡敵せず、晴元派の軍勢は丹波へ敗走となった。そして相国寺は炎上し、伽藍のほとんどが灰になってしまったのである。

戦後

その後、長慶は長頼に命じ、将軍義輝を威圧するために近江国へと侵入させている。晴元派の六角義賢の軍勢によって撃退されてしまったものの、義輝は奉公衆であった朽木氏のいる近江国高島郡へ移った。

長慶が義輝・晴元に追従している者の知行を全て没収すると通達したため、彼らの多くが義輝らを見捨てて帰京。このため、長慶の強大な軍事力にもはや太刀打ちできなくなる。しかし、長慶は義輝に対して寛容であった。執拗に追撃もせず、翌年には管領を細川氏綱にするという条件で義輝と和睦している。これにより、義輝は帰京し、長慶は将軍家直臣となった。
一方、晴元は和睦に納得せずに徹底抗戦を続けていくことに…。そして義輝もまた、再び晴元と組んで長慶と敵対することになり、畿内の戦乱は継続されていくのである。





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