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「畠山義堯」畠山・細川両家の内紛に身を置いた生涯とは?

畠山総州家の当主・畠山義堯(はたけやま よしたか)は、両細川の乱で反高国派として細川高国政権の崩壊に尽力。 しかし、暫定政権となった堺公方に内紛が勃発すると、義堯の命運が尽きることに…。

総州家と尾州家の対立

畠山氏は室町幕府における三管領の一つという名家である。しかし、畠山義就と畠山政長による家督争いが勃発すると、畠山総州家(義就)と畠山尾州家(政長)に分裂することに。そのまま応仁の乱に突入して両家は激しく対立。乱の終息後も内紛は続いていた──。

畠山義堯は畠山総州家の5代目にあたる。誕生年は不明で父は畠山義英である。

父義英が幼少時の中央政権は、管領・細川政元が掌握しており、義英はその庇護下にあった。永正3年(1506年)には、政権が不安定な隙をついて政元から独立を図るも、これに失敗して義英は一旦没落。しかし、永正4年(1507年)に政元が暗殺されたのをきっかけに河内高屋城へ入城を果たしている。

だが、暗殺事件の結果、政元の養子(澄之・澄元・高国)による細川宗家の家督争いが勃発する。義英はその煽りを受け、翌永正5年(1508年)には養子の一人である細川澄元の軍勢に攻められて再び逃亡するハメとなる。なお、この年に周防の大内義興が前将軍・足利義稙を擁立して上洛軍を起こし、これと手を結んだ細川高国が当時の将軍・足利義澄と澄元を追い出したことで、ここに新政権(高国政権)が樹立されたのである。

高国派との抗争で活躍

以後、高国派と澄元派による抗争がはじまる。(両細川の乱)
この抗争は細川宗家の家督争いだけでなく、管領職や将軍職を巡る争い、さらには畠山家の対立といった側面ももっていた。 総州家は義堯が澄元の娘を娶って澄元派となり、一方で尾州家は高国派となって対立を続けていくことになる。

両細川の乱は基本的に高国派が有利で、事実上は高国政権が維持されていた。一時的に澄元派に京を奪われることもあったが、すぐに奪還している。

永正17年(1520年)には澄元が没し、子の晴元が後を継ぐが、彼はまだ幼かったゆえに政権奪取の機会はなかった。一方、義堯は大永2年(1522年)頃に畠山総州家の家督を継ぎ、大永6年(1526年)前後には幕府の管領となったらしい。これは高国が讒言を受けて家臣の香西元盛を謀殺したため、丹波国の国人衆の支持を失ったことに起因する。その結果、高国は大永7年(1527年)桂川原の戦いで敗れ、時の将軍足利義晴と共に都落ちした。

こうして細川晴元が足利義維を擁して入京、堺公方が成立となった。その後まもなく、再上洛をもくろむ高国が朝倉宗滴らを味方に加えて反撃、堺公方に属した義堯もこれを向かえ撃つ。(川勝寺口の戦い)
戦線は膠着状態したものの、高国と宗滴が不和となって最終的に高国勢の撤退となった。

享禄元年(1528年)には、柳本賢治と手を結び、尾州家当主・畠山稙長の本拠地・河内高屋城を陥落させるなど、尾州家との戦いを優勢に進め、重臣の木沢長政を京都防衛の任に付けている。

享禄3年(1530年)、播磨国を統一した浦上村宗が高国に加担して摂津へ侵攻してくると、柳本賢治は討たれ、義堯らも一旦京を追われた。翌享禄4年(1531年)3月には木沢長政も突如撤退するなど、一時は高国派に京を奪われる事態となるが、堺公方方が三好元長や細川持隆ら大軍勢の援軍で立て直しを図り、6月の大物崩れで高国軍を討ち破り、高国と浦上正宗を討ち取ったのである。

晩年

高国亡き後、政権は安定するかに思われたが、次期将軍予定の堺公方(=足利義維)の処遇を巡り、内部対立が生じるようになる。 晴元が現将軍の足利義晴と和睦して管領職に就こうとしたため、これに義堯や三好元長らが反発したのである。

この対立の中、義堯腹心の木沢長政が晴元方に寝返り、さらに尾州家の畠山稙長からの攻撃も受けて、窮地に立たされることに。 翌享禄5年(1532年)、義堯は飯盛城の戦いで元長と協力し、長政の居城を攻めるが、援軍に駆けつけてきた一向一揆の僧兵らに敗れ、最期は自刃した。
なお、一向一揆の援軍は晴元の手引きである。





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