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「畠山高政」復権目指し、下剋上の屈辱から脱却を図るも…

家臣に実権を掌握された畠山尾州家の復権を目指し、奔走した河内守護の畠山高政。三好・織田という大国にはばまれ、過酷な没落過程を味わうハメに…。

遊佐氏に掌握された畠山尾州家

畠山高政は大永7年(1527年)、畠山尾州家の畠山政国の嫡男として誕生した。

河内国の守護・畠山氏といえば、足利一門であり、室町幕府内で重きをなした三管領の一つとして知られている。 室町後期には内紛によって総州家と尾州家に分かれて対立し、これが応仁の乱の一因にもなったが、乱の終息後も対立は長らく続き、やがて下剋上によって総州家は木沢長政、尾州家は遊佐長教が掌握することになる。

遊佐長教は、天文3年(1534年)に当時の尾州家当主・畠山稙長を追放して以降、短期間のうちに次々と当主をすげ替え、天文11年(1542年)には太平寺の戦いで木沢長政討伐に加担する等、河内の支配を完全なものにすると、のちに天下人の細川晴元と決別して台頭する三好長慶に与し、天文18年(1549年)には江口の戦いで細川政権の崩壊に一役買い、自らの権力を保った。なお、総州家は木沢の死とともに事実上の滅亡となっている。

この間の天文14年(1545年)に、高政の父・政国も長教に擁立されているが、天文20年(1551年)に長教が暗殺されると、尾州家の勢力図が大きく変わることになる。

家督継承、そして河内守護に。

長教の死後、尾州家では安見宗房が台頭。暗殺事件の首謀者として疑われた萱振氏らを滅ぼし、家中で自らの地盤を固めていくと、天文22年(1553年)頃には、すでに尾州家の家督を継いでいた高政が河内守護に擁立される。

三好政権誕生後も、晴元と13代将軍足利義輝らが政権奪回を図り、たびたび三好氏と争っていたが、尾州家は三好方に味方して援軍を派遣するなど、三好との友好関係は維持されていたようだ。やがて高政と安見宗房の間で不協和音が生じ、永禄元年(1558年)には高政が堺に追放されるが、翌永禄2年(1559年)には三好氏の支援を受けて逆に宗房らを駆逐。高政は高屋城に復帰している。

三好家との対立

しかし、今度は高政と長慶とが不和となり、永禄3年(1560年)に対立関係に入る。高政は宗房と和睦するが、その後三好軍の攻撃を受けて高屋城を占領され、高政・宗房らは紀伊へと逃走する事になる。

永禄4年(1561年)、紀伊へと逃れた高政に、三好氏の勢力拡大に危機感を持った近江の守護大名・六角義賢から高政へ長慶を南北から挟撃するための軍事同盟の提案がくる。畠山氏は実権を遊佐氏に奪われていたとはいえ、紀伊においては一定の支配力を維持していた。紀伊の軍勢を動員した高政は、細川晴元の次男である細川晴之を旗頭とした六角勢に呼応し、京都へ向けて進軍する。

11月24日、将軍地蔵山の戦いにおいて六角方が三好方に勝利すると、翌永禄5年(1562年)3月5日、久米田の戦いでは、高政は自ら総大将となって旗本を率いて戦い、長慶の弟・三好実休を討ち取るなど、戦いを優位に進め、一時は高屋城を奪還する事に成功。勢いに乗った畠山軍は、長慶の居城・飯盛山城に向けて進撃し、周辺の諸城を次々と陥落させていった。
しかし次第に三好方も体制を整え直し、同年5月14日には、飯盛山城の救援に向けて三好義興・三好康長・三好政康・三好長逸・松永久秀安宅冬康十河存保ら、5万ともいわれる軍勢が動員された。これに対して畠山軍も飯盛山城の包囲を解いて、教興寺畷において両軍がついに決戦に及ぶことになった。(教興寺の戦い
結果、大敗を喫した畠山氏は河内における支配権を完全に失い、紀伊へと撤退する事となった。

台頭する信長に従属し、旧領回復するが…

永禄8年(1565年)永禄の変によって将軍義輝が三好三人衆らに討たれると、高政は家督を弟の畠山秋高に譲り、義輝の実弟である義秋(のちの足利義昭)の擁立に奔走する事になる。そして、永禄11年(1568年)に義昭を奉じた織田信長軍が上洛してくると、それに従って三好氏に奪われていた旧領の一部を安堵され、勢力を回復させる事に成功する。

元亀元年(1570年)野田城・福島城の戦いでは、河内に下向して織田軍に加わり、三好三人衆や本願寺軍と戦っている。その後、高政は隠居。

しかし、信長と義昭の対立関係が表面化すると、畠山家中において動揺が走る…。河内の国衆の大半が義昭を支持するも、高政の弟・畠山昭高が信長の威勢にひるんで信長派に転じたため、畠山家臣団と対立して、天正元年(1573年)に義昭派の遊佐信教に攻められて自害となった。これに高政は仇討ちのために挙兵し、河内に進攻したものの敗北を喫し、またしても紀伊に後退する事になる。

河内国は天正3年(1575年)の高屋城の戦いののち、信長の重臣・佐久間信盛の支配下に置かれ、畠山旧臣の多くがその指揮下に入った。このため、畠山氏は紀伊国有田郡において命脈を保つのみとなる。
高政は河内と紀伊を流浪し、天正4年(1576年)の10月、失意のまま死去した。





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