丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「三好元長」晴元最大の支持者も、主従関係の悪化に泣かされた?

三好元長の肖像画
三好元長は、のちに三好政権を樹立した三好長慶や実休らの父として知られる。細川晴元に仕えて多大な功績を残すも、最期はその主君の謀略によって命運が尽きた。

堺公方政権の誕生に貢献

三好元長は、文亀元年(1501年)に阿波国に誕生。父は三好長秀(一説に之長)というが定かではない。

之長と長秀は、永正4年(1507年)に細川政元が暗殺され、政元の養子による家督争いが勃発すると、細川澄元を支持。しかし周防の大内義興に擁立された前将軍の足利義稙が上洛へ向かうと、これと結んだ細川高国によって澄元らとともに京を追い出されてしまう。その後も続いた高国勢との戦いにおいて、永正6年(1509年)如意ヶ嶽の戦いで長秀が、永正17年(1520年)等持院の戦いで之長がそれぞれ敗死。さらに加えて主君の澄元も失意のうちにまもなくして病没となった。
こうして三好家の家督を継いだ元長は、澄元の遺児・細川晴元と共に再挙の機会を伺うことになる。

中央政権はしばらく、高国と将軍に返り咲いた足利義稙、および大内氏が掌握していたが、大永6年(1526年)になって事態が動き出す。同7月、高国が従弟の讒言を信じて重臣であった香西元盛を謀殺。それに対して元盛の実兄である波多野稙通・柳本賢治が挙兵したのである。

この動きに晴元と元長は呼応する形で10月に阿波国で挙兵。高国が新たに擁立していた将軍足利義晴に対抗して、その弟の義維を擁立。畿内に進出して波多野稙通の軍と合流すると、大永7年(1527年)の3月に桂川原の戦いで高国と義晴の連合軍を破り、近江坂本へ追いやることに成功。
この戦いにより、京都は山崎城の柳本賢治が支配し、晴元と元長一派は義維を擁して堺で政権を樹立することとなり、近江に敗走した高国一派も加えた三つ巴の状態が出来上がることになった。なお、義維はその擁立された地から「堺公方」とも呼ばれた。

高国軍を壊滅させる

一連の功績を認められ、山城守護代に任命された元長であったが、柳本賢治らと折り合いが悪く、やがて阿波国へと引き上げることになった。しかし、播磨の浦上村宗を味方にした細川高国が、勢力を再び盛り返し始め、享禄3年(1530年)には迎撃に当たった柳本賢治が自害(一説に暗殺)させられると、これを機に高国軍が摂津国へ侵入するなど、元長不在のいない堺公方一派の旗色は悪くなっていく。

享禄4年(1531年)には、高国軍の攻勢で京都を守っていた木沢長政が撤退し、再び京都の地が奪われることになった。しかしこのころ、事前に晴元に懇願されていた元長は、阿波から渡海して摂津中嶋に着陣。さらに元長の要請で阿波守護の細川持隆8千余の援軍も堺に到着したことで、摂津中嶋・天王寺付近で堺公方派と高国派が衝突。
両軍決定打のないままで戦線は膠着状態となったが、赤松政祐の参戦によって事態が動く。高国の援軍として参戦した政祐であったが、実は高国派の浦上村宗は父親である赤松義村の仇であり、以前より村宗を狙っていたとされている。そして、参戦前より堺公方派に内応していたため、高国軍は一気に総崩れとなった。(大物崩れ

この大物崩れで高国は尼崎に逃走したが、元長らに厳しく追跡されてついに捕らえられ、自害している。なお、この戦いで細川家の養子による家督争いが事実上幕を閉じることとなった。

主君との決別

細川高国を破り、大きな目的を果たした堺公方派であったが、このまま一枚岩で政権が続くことは無かった。足利義維をこのまま新将軍に擁立するにみえたが、晴元は高国が擁立していた現将軍の義晴との和睦を打ち出したため、堺公方内部に亀裂が走ることとなる。

今まで堺公方として擁立してきた義維を将軍とすることで「堺幕府」を作ることが出来るところだっただけに、元長と畠山義堯は断固として反対。しかし晴元は全く聞く耳を持たず、主君との間には大きな溝が出来てしまうこととなった。これまでの元長の活躍は、その能力の高さゆえ、かえって晴元の疑心に繋がることとなったのか、その存在自体が危険視されるようになっていた。さらに三好政長や 木沢長政の暗躍もあって、彼らの讒言により、元長と晴元との溝は決定的なものとなる。

元長の最期とのちの三好氏

畠山義堯の重臣であった木沢長政はその存在感を増していった。それに危機感を覚えた義堯は元長と手を組む。

享禄4年(1531年)の8月、長政の企てを知った義堯は激怒し、長政の居城である飯盛山城を攻囲。一度は晴元の要請によって撤退したものの、享禄5年(1532年)の5月に再度飯盛山城を包囲する。
前回と同じように晴元が長政を擁護しようとしたが、包囲が続けられたために、落城は時間の問題かにみえた。しかし6月15日、援軍に加わった一向一揆衆数万が突如として背後から襲いかかってきたことで戦況が一変。包囲軍は総崩れとなり、畠山義堯は自害に追い込まれ、元長も命からがら戦線を退いて顕本寺へと逃げ戻っていった。(飯盛城の戦い

これは晴元が山科本願寺の法主・証如に一揆軍の蜂起を要請していたのである。その後、一向一揆衆が元長を追って、顕本寺を取り囲んだ頃、その軍勢は一段と膨れ上がっていたらしい。6月20日、ここまで擁してきた義維をなんとか戦地から逃し終えた元長は、最期に自害して果てた。享年32。

無念の死となった元長だが、三好家は彼の4人の子たち、すなわち三好長慶三好実休安宅冬康、十河一存によって大きく飛躍を遂げ、幾内で天下の実権を握ることになる。おそらく彼らの中には、父親である元長の姿がお手本となって、その活躍の支えとなっていたことであろう。なお、死後20年余経ってから、長慶の手で堺の地に南宗寺が建てられ、そこに元長の菩提が弔われている。





関連ワード


おすすめの記事

 PAGE TOP