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「北白川の戦い」長慶は寛容!?戦後に将軍と和睦へ。
──永禄元年(1558年)

北白川の戦いは、細川晴元と将軍足利義輝が京都の実権を取り戻すために起こした合戦の一つである。ともに反三好で共闘した両者だが、敗戦後は別々の道を進むことに…。

合戦マップ

時期永禄元年(1558年)6月9日
勢力三好長慶 vs 細川晴元足利義輝
場所山城国・愛宕郡白川(現在の京都府京都市左京区北白川周辺)

合戦の背景

天文18年(1549年)江口の戦いの結果、細川政権が三好政権にとって代わられ、京を追われた細川晴元と将軍足利義輝。彼らは政権奪回のために、三好長慶の暗殺未遂事件や挙兵を繰り返しては失敗。将軍義輝に関しては一時は長慶と和睦して帰京を果たしているが、やがて決裂する。晴元に至ってはこの時の義輝と長慶の和睦にも反対し、反三好の姿勢を一切崩さなかった。

天文22年(1553年)、義輝は再び晴元と組んで共に挙兵する。しかしまたもや長慶軍に敗れて近江朽木へ逃れ、そこで5年の時を過ごした。なお、その間に長慶は実質的な天下人として将軍不在のまま京を支配し、さらに勢力圏も拡げている。

合戦の経過・結果

こうした中、永禄元年(1558年)には、近江守護・六角義賢の支援を受けた義輝・晴元が再び立ち上がった。義輝ら幕府連合軍は3千の軍勢で同年5月3日には近江坂本に到着。一方、9日には、長慶方も松永久秀・長頼兄弟と三好長逸合わせて1万5千の軍勢が京都南部に布陣。長慶自身も居城である芥川山城から東寺に移した。

交戦の緊張が高まる中、6月2日には長慶方が将軍山城を占拠、合戦に向けて修築に当たると、義輝方も4日に如意ヶ嶽を占拠。 周辺地域で小競り合いがあり、幕府連合軍は放火するなど攻勢を強めて戦略的にも優位に立ったとみられる。7日には長慶軍が将軍山城をあきらめて京都へ退却し、幕府連合軍の手にわたるが、8日には逆に久秀らの軍勢が手薄になった如意ヶ嶽を占拠している。

両軍の位置が入れ替わった格好となったが、翌9日には北白川でついに両軍が衝突となった。結果は長慶軍の勝利となり、幕府連合は義輝の奉公衆70人などが討ち取られている。なお、小規模な争いに終始したが、これは幕府連合が戦闘によって京都市街地が荒廃するのを避けたかったという事情があったとみられる。

戦後

その後も両軍の対峙は続けられて戦線は膠着状態となるが、長慶は幕府連合軍を後援している六角義賢に和睦交渉をしつつ、裏で四国の軍勢を呼び寄せていた。同年7月~9月にかけて叔父の三好康長をはじめ、三好実休安宅冬康・十河一存ら3人の弟や嫡男・三好義興の軍勢がぞくぞくと堺に上陸。こうした長慶方の圧力が実り、11月には六角義賢を介して和睦が成立となった。

義輝は5年ぶりに京都へ戻るも、幕政はそのまま長慶が主導する形となった。なお、晴元はこのときも和睦に反対して行方をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続けていくことになる。





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