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「将軍地蔵山の戦い」晴元が幽閉され、姻戚関係にあった六角氏が激怒!?
──永禄4年(1561年)

この戦いは、細川晴元が三好氏と和睦してまもなく幽閉されたのをきっかけに、六角承禎が挙兵した戦いである。

合戦マップ

時期永禄4年(1561年)11月24日
勢力三好長慶 vs 六角義賢(承禎)
場所山城国・将軍山城周辺(現在の京都府京都市左京区北白川周辺)

合戦の背景

永禄4年(1561年)、かつては主従関係にあり、敵対してから長い間権力争いを続けてきた細川晴元と三好長慶の2人は、将軍足利義輝の勧告によって和睦し、5月に摂津に迎え入れられるも、まもなく普門寺城に軟禁されてしまう。

晴元の子・細川晴之の後見人を務めていた近江守護の六角承禎は、この処置に身の危険とともに怒りを覚えると、同年には長慶の重臣で鬼十河と恐れられた十河一存が急死していたのもあり、好機とみて動き出した。

承禎は、晴之を擁立するとともに、紀伊国の守護大名・畠山高政と共謀して挙兵。7月13日に高政軍が亡き十河一存の居城・岸和田城を取り囲むと、これに呼応して晴之を総大将とした総勢2万もの軍勢を派遣し、京都へと進軍させる。同28日には家臣の永原重澄に東山にある将軍地蔵山城を占領させ、自らは山麓の神楽岡に布陣して上洛の機会を伺うことにした。

これに対し、飯盛山城にいた長慶は松永久秀率いる大和勢7千を西院小泉城に、三好義興率いる摂津勢7千梅津城と郡城にそれぞれ入城させ、敵の籠る勝軍山城へと対陣させた。その後両陣営は3か月程、弓矢による遠距離射撃程度の小競り合いが続くことになる。

合戦の内容

同年11月24日、ついに長慶軍の先制攻撃によって戦局が動き出す。

永原重澄隊の隙を突いた松永隊が襲いかかると、重澄隊は城を出て迎撃するがここで猛烈な反撃にあって、指揮官の重澄自身が討ち取られた。さらに三好義興隊もこの勢いに乗じて総大将の晴之隊に猛攻を加え、混戦の中で晴之を討ち取った。

将軍地蔵山城を突破した総勢1万もの久秀隊は、いよいよ神楽岡に布陣していた六角軍に突撃を敢行。これに対し、承禎は家臣に命じて、弓の名手300余名を高所に陣取らせ、タイミングを見計らって久秀隊に一斉に矢を打たせると、久秀隊の多くを討ちとって敗走させたのである。
さらに、これに乗じて追撃戦も展開しようとするが、家臣の蒲生賢秀から進言を受け、追撃を中止した。

戦後

その後も両陣営の小競り合いは続き、翌年には、三好実休が畠山高政軍に敗れて戦死した久米田の戦いにつながる。この戦いでの敗戦がきっかけで三好家の衰退が始まるのである。





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