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「足利義澄」室町幕府11代将軍。将軍職を巡って乱世に振り回された!?

足利義澄の銅像
クーデターによる細川政権の誕生とともに将軍となった足利義澄。10代という若さゆえ、はじめは細川政元の傀儡だった。やがて幕政を主導するようになっていくものの、政元暗殺事件が起きると、その影響を受けて失脚していくことになる。

堀越公方の子

足利義澄は文明12年(1481年)、堀越公方・足利政知の子として誕生。なお、父政知は8代将軍足利義政の弟であることから、将軍義政は伯父にあたる。

「堀越公方」とは、伊豆堀越(現在の静岡県伊豆の国市)を本拠とした室町幕府の東国の支配機関である。現在に例えると、義澄は県知事の子といった具合で、世襲制が当たり前だった当時では、ある程度の地位が約束されていたも同然だった。しかし、政知の後継者には義澄の異母兄であった茶々丸の就任が確定していたため、叔父の義政の意向を受けて、文明17年(1486年)に京都の天龍寺香厳院の後継者として6歳で出家し、清晃という法名を名乗った。

この時点で、彼がのちに将軍職に就くとは誰も想像していなかっただろう。

新政権誕生とともに将軍へ。

ところが長享3年(1489年)の3月、義政の子で9代将軍であった足利義尚が病死。さらに翌延徳2年(1490年)には義政自身も亡くなって、将軍職が空席となった。このとき、義澄にも将軍就任の話が上がったが、結局は義政の妻・日野富子の推挙によって、足利義材(のちの足利義稙)が10代将軍となった。

幕政は将軍の父であった足利義視と日野富子が掌握することになったが、まもなく二人は不和となり、日野富子は義澄支持派であった細川政元に接近して対立することに…。

政元は三管領細川家の生まれで、将軍義材とは馬が合わなかったようであり、やがて現体制の転覆を計画。そして明応2年(1493年)の4月、ついに "明応の政変" と呼ばれるクーデターを決行した。このとき、義澄は政元に擁立されて11代将軍に就任することになり、新たに細川政元政権が誕生したのである。
なお、義材は徹底抗戦の構えを見せたものの、敗北して龍安寺に幽閉されている。

政元暗殺で失脚

将軍となった義澄だが、当時はまだ10代前半であり、事実上の実権は政元が握ることになった。しかし、やがて富子が死去し、義澄自ら政務を行おうと政元と対立するようになる。実際、文亀2年(1502年)には政元が管領を辞任する意向を示したり、義澄が京都岩倉の金龍寺に引きこもっている。その後、義澄は復帰を要請する政元らに対し、復帰の見返りとして義材の異母弟・実相院義忠の処刑を認めさせるなど、他の将軍候補を失わせて自身の力を強めていった。こうして両者は政治的にはそりが合わなかったものの、なんとか協力関係を維持し続けていたようだ。

しかし、永正4年(1507年)に政元が暗殺されて細川宗家の家督争いが勃発すると、その翌永正5年(1508年)には、周防の大内義興に擁立された前将軍・足利義尹(=かつての義材)が、再挙を図って京へと迫ってきた。
このとき、細川高国が後継者候補にあった細川澄元を裏切って大内氏と結託したこともあり、義澄は澄元とともに近江へ逃亡するハメとなった。ここに義尹が将軍に返り咲き、高国政権が誕生することになった。

その後、義澄は復権に向けて細川澄元や阿波三好の軍勢を派兵するも、その度に大内義興や細川高国の軍に敗れた。 その後も、義尹の暗殺を企てたり、赤松義村に御内書を送る等、あきらめずに将軍職への復帰を目指したが、その努力もむなしく、永正8年(1511年)8月に水茎岡山城で病死した。享年32。

なお、義澄の死の9日後に高国・澄元陣営による決戦(船岡山合戦)が行われたが、澄元方は敗北し、義尹の12代目の将軍職が確定している。





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