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「三好長治」阿波の暴君と化した実休の嫡男。

三好長治は父の死によって若くして阿波三好家の家督を継承。若さゆえか、本国の四国阿波において強権政治を敷き、自滅への道をたどっていた。

若くして三好家の家督を継ぐ

三好長治は天文22年(1553年)三好実休(三好義賢)の長男として誕生。異母兄に細川真之、同母弟に十河存保、異父弟に長宗我部右近大夫(父は長宗我部元親)がいる。長治の幼名は千鶴丸と名乗っていた。

当時、幾内を掌握して三好政権を樹立していた三好長慶は叔父にあたる。彼は幾内の安定を図るため、永禄元年(1558年)には敵対関係にあった13代将軍足利義輝と和睦し、一転して幕府と協力関係を築く。この頃の三好氏はまさに全盛期だった。

しかし、三好氏没落の遠因ともいわれる永禄5年(1562年)久米田の戦いの時、畠山高政に攻め込まれて父・実休が戦死し、わずか10歳だった長治が阿波三好家の家督を相続した。
阿波三好家は阿波国の統治を担っていたが、幼君の長治が国を治めるのは難しいため、事実上は重臣・篠原長房らが主導してのものであった。長治が当主となって以降も、三好家としては分国法「新加制式」の制定や、永禄9年(1566年)の室町幕府第14代将軍として足利義栄を擁立するなどの動きがあったが、これらも基本的に篠原長房や三好三人衆ら重臣の主導で行なわれたものと考えられている。

激動する中央の情勢

ここで再び三好宗家の動きを追ってみよう。

永禄7年(1564年)に長慶が病没すると、三好三人衆ら重臣が三好家中を掌握し、翌永禄8年(1565年)永禄の変で将軍義輝を殺害。このとき、将軍の弟・覚慶(のちの足利義昭)が家臣の手で脱出し、近江矢島(現在の滋賀県守山市)を経て越前の朝倉義景を頼っている。

このクーデターの後まもなく、三好家中は内紛状態に入る。跡を継いだ若年の三好義継をよそに重臣の三好三人衆と松永久秀が対立。はじめ三人衆方だった義継はのちに久秀方に鞍替えし、永禄11年(1568年)に足利義昭を擁して上洛する織田信長に協力し、三好三人衆を阿波まで追いやっている。ここに三好政権は崩壊し、事実上の織田政権樹立となった。このとき長治はまだ16歳である。

以後、篠原長房や三好三人衆らは信長から幾内を奪還しようと試みる。永禄12年(1569年)本圀寺の変元亀元年(1570年)野田城・福島城の戦いなど、たびたび阿波から出陣したものの、勢力回復することはできなかった。

阿波での強権政治

こうした幾内情勢の中、一方で阿波国の統治を担っていた長治は、元亀3年(1572年)に篠原長房の弟である篠原自遁の讒言に惑わされて長房と不仲になってしまった。翌天正元年(1573年)年には異父兄で阿波国守護でもあった細川真之と協力し、上桜城の戦いで篠原長房を攻め滅ぼしてしまう。この戦いの勝利によって阿波国の実権を手に入れた長治は、これを契機に強権を振りかざすことになる。
ちなみに同年、信長が将軍義昭を追放して室町幕府が事実上滅亡し、その義昭を庇護した三好義継も信長の怒りを買って若江城の戦いで討たれ、三好宗家も滅びている。

やがて長治の暴政に対し、讃岐国の香川之景や香西佳清らが連名で、長治の実弟・十河存保に離反を警告する書状を送りつける。 つまり「あなたの兄だから何とかしてほしい」と警告を出したワケだが、これを受けて十河存保も兄を諌めている。 しかし長治は弟の諫めを無視して、逆に軍勢3千で香川・香西両氏を攻め込んだ。これにより、両氏の三好氏からの離反は決定的なものとなってしまったのである。

天正3年(1575年)になると、長治は阿波全土の国人や領民に対して法華宗への改宗を強要する。これはかつて三好家が畿内・和泉での根拠地であった顕本寺が法華宗であったことや、父の実休が晩年に法華宗に深く帰依してことによるといわれている。しかしこの方針は、国人や領民の支持を失っただけでなく、他宗からの反感まで招いてしまう。この国内の混乱は、隣国・土佐国の長宗我部元親による阿波侵攻を誘発してしまう結果となる。

天正4年(1576年)にはともに篠原長房を討った細川真之とも対立してしまう。圧倒的に不利な状態に陥った長治は、天正5年(1577年)元親の助力を得た細川真之と阿波荒田野で戦って敗死した。享年25。





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