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「細川高国」細川宗家の争いを制して天下人になるも、最期は…

細川高国の肖像画

細川野州家の出身。政元の養子に。

戦国初期を駆け抜けた武将にして、室町幕府の第31代管領を務めた細川高国は、野洲家・細川政春の子として文明16年(1484年)に生まれた。はっきりとした時期は記録に残っていないが、高国は細川氏一門・野洲家から細川氏本家・細川京兆家へと養子に迎えられている。

細川京兆家の当主であり、室町幕府の管領を務めていた細川政元は独身で子をもうけていなかったため、聡明丸(のちの細川澄之)とのちにライバルとなる細川澄元の2人を養子に迎えており、高国は3人目であった。折り合いがつかない澄之を廃嫡して、文亀3年(1503年)に澄元を迎えたので、少なくとも高国が政元の下に行ったのは19歳以降とされている。

転機となったのは永正4年(1507年)6月に政元がかつて廃嫡した、澄之派の家臣・香西元長や薬師寺長忠によって殺害された事件である。同8月1日に当主候補の一人であった澄元が澄之掃討のために挙兵したため、高国は澄元を支持して討伐へと乗り出した。翌2日に澄元は、将軍・足利義澄に対して細川京兆家の家督継承を承認させる。この一連の騒動は「永正の錯乱」と呼ばれている。


当主候補の澄元を出し抜き、当主の座へ

永正の錯乱の流れを見て好機と悟った周防の大内義興は、庇護していた前将軍・足利義稙を擁立して上洛する。 澄元の命令で義興との和睦交渉に出ていた高国は、澄元を裏切り細川陣営の内部崩壊を図った。

永正5年(1508年)には、伊丹元扶や内藤貞正らの援助を受け京都に攻め入り、澄元や将軍・足利義澄を近江へと追いやったのだ。同年5月5日には義稙を再び将軍職へと復帰させることに成功、同時に澄元を細川京兆家の当主の座を剥奪し、高国が次期当主の座を得ることとなる。同年7月18日には、高国は右京大夫・管領に就く。

永正6年(1509年)には澄元と三好之長による逆襲を受けるが(如意ヶ嶽の戦い)、義興と協力して退けて近江へと追いやった。 しかし翌年の永正7年(1510年)には近江へと再度侵攻するも、澄元を支持する近江国の国人の助けにより高国は敗北してしまう。 政権奪取を諦めない澄元の進撃は止まらず、永正8年(1511年)には京都へと侵攻されてしまい(深井城の合戦・芦屋河原の合戦)、高国は劣勢に陥って丹波に一時撤退する。しかし、澄元が擁立する前将軍・足利義澄の病死など高国側の追い風となる出来事が相次ぎ、高国は8月24日の船岡山合戦に勝利した。

京を制圧し、天下人に

永正15年(1518年)8月2日、これまで共に政権を支えてきた義興が周防へ帰国し、高国はこれより単独で政権を執り行うことになる。阿波で潜みながら虎視眈々と狙っていた澄元は、永正16年(1519年)に三好之長と共に摂津へと侵攻して(田中城の戦い)、高国に再び危機が訪れた。大内軍の不在が響いたのか敗戦を喫してしまい、高国は近江坂本への退散を余儀なくされる。さらに追い打ちをかけるように、将軍・義稙には澄元に内通されてしまう。 しかし、翌永正17年(1520年)の5月に高国は六角氏・朝倉氏らの支援を仰いで、再度挙兵を果たして京へと反撃侵攻する。等持院の戦いにて澄元の忠臣・三好之長を自害へと追い込み、澄元自身を摂津へと追い払い、政権転覆の危機を乗り切った。

同年6月2日に、高国と長年にわたって対立を続けてきた澄元が阿波で病死し、高国を裏切って澄元に乗り換えようとした将軍・義稙も立場を失い、敵対する勢力がなくなった高国は天下人となった。この後、高国は味方として大きな武勲をあげた瓦林正頼らに対して、謀反の嫌疑をかけて殺害するなど自身の地位を脅かす恐れのある者の排除を行い、内部の引き締めを行っていく。

その後立場を失った将軍・義稙が永正18年(1521年)3月7日に京を出奔したため、将軍不在による高国政権存続が危ぶまれたが、かつての対立者である義澄の子・亀王丸(のちの足利義晴)を擁立して事なきを得た。

晩年は隠匿と復帰。最期は?

亀王丸を12代将軍へと擁立した高国は、管領・従四位下武蔵守に任官されることとなる。 大永4年(1524年)4月21日には剃髪して「道永(どうえい)」と号して、家督と管領職を嫡子・稙国に譲って隠居した。しかし、同年12月に稙国が急逝したため、高国はやむをえず管領と細川京兆家当主として復帰することとなる。しかし、高国が同族の細川尹賢の讒言を信じてしまい、大永6年(1526年)7月13日に重臣・香西元盛を謀殺したことにより高国陣営は崩壊へと向かう。この事実を知った元盛の実兄である波多野稙通・柳本賢治が怒り、丹波で挙兵されてしまった。この鎮圧に尹賢を向かわせるもののあえなく敗退、追い打ちをかけるようにかつてのライバルであった澄元の子・細川晴元三好元長(之長の孫)にまで阿波で挙兵されてしまう。晴元率いる阿波勢と丹波勢が合流して巨大化した連合軍を前に、かつての権力者である高国でも手の施しようがなかった。

大永7年(1527年)2月には、とうとう敵連合軍の尖兵・柳本賢治や三好元長らに京による侵攻を許してしまう。桂川で迎撃したものの敗れ、高国は足利義晴を擁したまま近江坂本に逃れて政権崩壊となった。(桂川原の戦い

その後、高国は伊賀の仁木義広らを頼って生き延び、享禄3年(1530年)に柳本賢治が暗殺された事件を機に、備前守護代・浦上村宗と連携して京に再び進軍する。これによって京都帰還を果たした高国は、管領の座を脅かす晴元を倒すべく堺公方府への出征を試みた。しかし、享禄4年(1531年)の3月10日に晴元の重臣・元長からの反撃で出鼻をくじかれ、膠着状態に陥る。

同年6月に赤松政祐の支援を得たが、あえなく裏切りに遭い高国軍は総崩れを起こして尼崎へと逃走。この一連の流れを「大物崩れ」と呼び、元長たちの厳しい捜索によって高国は逃げ切ることができず、6月8日に尼崎の広徳寺で自害に追い込まれ、48年の生涯を閉じた。





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