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「細川晴元」政権奪取と剥奪を経験。その皮肉な運命とは?

父が細川政権の覇権争いで敗死

永正11年(1514年)、細川晴元は父澄元と母清泰院の間に誕生。彼は名門・細川京兆家の血筋である。

当時の細川政権は混乱期に入っており、細川京兆家では管領細川政元の死をきっかけに、政元の養子らによる権力争いが勃発していた。養子の一人だった父澄元は当主の座を巡って細川高国と争ったが、永正17年(1520年)6月10日に敗死。このため、晴元は7歳にして家督を継ぐこととなる。

仇敵の高国は室町幕府10代将軍・足利義稙を追放した上、足利義晴を12代将軍に擁立してなおも勢力を高めていった。 なお、追放された義稙はその後に再起を図って高国と戦うが、結局復権とはならず、大永3年(1523年)には助力を得ようと晴元の下を訪れるが、その矢先に亡くなっている。

父の仇、高国を討つ!

高国が独走していくかに思えた細川家争いも、変化の兆しが見え始める。大永6年(1526年)7月13日に、家臣の讒言を信じてしまった高国が配下の香西元盛を殺害。これに元盛の兄である波多野稙通や柳本賢治が激怒し、高国に背くこととなる。晴元はこれを機に家臣の三好元長に擁立されて同年10月に挙兵。年内に畿内へと進出して、波多野軍と合流することとなる。

晴元軍は高国軍との戦いに臨むうえで、12代将軍義晴の弟・足利義維を擁立したとされる。将軍義晴を誕生させていた高国軍を官軍とすれば、晴元軍は賊軍(=朝廷や幕府に対する反乱軍)扱いになり、味方も謀反を起こす危険があったからである。

大永7年(1527年)、晴元は桂川原の戦いにおいて勝利。高国や義晴を近江国へと追い出して入京を果たすと、が細川宗家当主の座を得ると同時に、足利義維を事実上の将軍とした政権を樹立した。なお、義維は以後5年間堺公方と呼ばれて幕政の中心にいたとみられるが、将軍にはなっていない。あくまでも次期将軍予定の人物であった。

享禄4年(1531年)にはようやく父の仇を討つ。 京から逃れていた高国は晴元打倒を図り、同年に備前守護代・浦上村宗とともに摂津国まで進軍し、晴元方の三好元長軍と激突。やがて両軍は膠着状態に陥る。同年6月には高国の援軍として赤松政祐が参戦するが、晴元と内通して寝返ったことで高国軍は総崩れとなって逃走。その後の捜索で高国を自害に追い込んだのである。(大物崩れ

のちの火種?家臣の元長を殺害

高国を滅ぼした晴元は、堺公方府としての政権奪取という目標を変え、その時点での将軍・義晴と和睦して管領に就こうとする。高国討伐の際の功労者であった三好元長と対立することとなり、享禄5年(1532年)に一向一揆の手を借りて元長を葬ってしまう。内部の反対派を排除することに成功した晴元であったが、将軍・義晴と和睦交渉が成立した後も勢力を強める一向一揆に手を焼くこととなる。

ここで一向一揆の鎮静に一役買ったのが、謀略によって晴元が葬った元長の子・長慶である。12歳にして奔走して和睦を図るという、優秀な手腕を買い晴元は長慶を家臣に組み込んだ。この後も長慶は晴元の優れた家臣としてその力を発揮していくこととなるが、晴元が父の仇敵・高国を討ったように、後の世で長慶もまた元長の仇敵である晴元を討つという連鎖が生まれたのである。

重臣に政権を奪われる…

天文8年(1539年)三好長慶は上洛し、同族の三好政長と河内十七箇所を巡って争い始める。晴元は政長の側に立って長慶と対立することとなったが、将軍・義晴と六角定頼が間に入り和睦した。2年後の天文10年(1541年)には小競り合いではおさまらず、木沢長政が造反して政長の排除を訴えるも長慶は取り合わなかった。翌天文11年(1542年)には摂津芥川山城で勃発した太平寺の戦いにて、長慶・政長の連合軍が長政を討ち取った。

だが反乱はおさまらず、天文12年(1543年)に高国の養子である細川氏綱が、打倒晴元を掲げて和泉国で挙兵する。徐々に力をつけた氏綱は、3年後の天文15年(1546年)8月に、長慶の動きを封じて摂津国の殆どを晴元から奪い取ってしまう。ここで一旦、晴元は丹波国へ逃亡を余儀なくされた。 晴元が反撃の狼煙をあげたのは、天文16年(1547年)のことである。越水城で待機していた長慶と協議して反撃し、摂津の細川氏綱を打ち破って摂津を平定した。

しかし、天文17年(1548年)5月6日にかつて細川氏綱に寝返った摂津国人・池田信正の両名を切腹させてしまったため、長慶と摂津国人衆の離反を招いてしまう。10月に氏綱側へ転属した長慶に挙兵され、摂津榎並城を攻囲される事態に発展する。晴元は長慶軍に兵力で劣るとはいえ、榎並城で籠っていた政長の子・三好政勝を見捨てては、畿内の国衆から見限られる可能性があったため、戦うしかなかった。主力決戦を回避して六角軍の到来を待って決戦に臨もうとしていたが、先に制されてしまったためこの戦・江口の戦いでは、晴元は戦わないまま敗北してしまう。この戦いで三好政長や高畠長直ら多くの配下を失い、晴元は将軍・義輝らと共に近江国坂本まで逃れた。

恐るべき執念。死ぬまで反三好を掲げる。

晴元と義輝不在の京都では、長慶が幕府および京都の実権を握ることとなる。天文19年(1550年)に足利義晴が死去してからは、晴元は逃亡先の近江国にて義輝を擁立して、香西元成や三好政勝などを率いて京都奪回を試みるが失敗に終わる。 その後丹波国から南下しては三好軍を脅かしたのち、天文22年(1553年)7月に義輝と共に晴元は長慶と交戦する。この戦いで敗北したことに加えて、8月には義輝側の霊山城が三好軍に落とされ、近江国朽木へ逃亡することとなった。弘治元年(1555年)にも再戦を挑むも、勢力を拡大した長慶の前では手も足も出せなくなった。

永禄元年(1558年)北白川の戦いにおいて、上洛を図って将軍山城で三好軍と交戦するが、六角義賢の仲介で義輝と三好長慶が再び和睦を結び、晴元は坂本に止まった。ついに晴元は永禄4年(1561年)に隠居し、永禄6年(1563年)3月1日に普門寺で50年のその生涯を閉じた。





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