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「遊佐長教」激動の細川政権期を乗り切るも、最期はあまりにも…

明応の政変によって誕生した細川政権は、細川宗家の家督争いの勃発以降はまさに合戦続き。河内畠山家の家臣であった遊佐長教は、河内国が京に近いことから、こうした合戦の多くに巻き込まれている。長教はその知謀で見事に生き延び、三好政権の誕生にも貢献したが、その後の命運は短いものであった──。

流転の少年時代

遊佐長教(ゆさ ながのり)は延徳3年(1491年)に河内守護代・遊佐順盛の子として生まれる。

遊佐家は、河内国守護の畠山家の被官として代々仕えてきた家柄であり、一見地位もあり何不自由ない身分に生まれついたたかに思われたが、その長教の人生はすぐに暗転する。当時河内は畠山家内部の家督争いで内乱状態にあった。父の順盛は当時の河内守護・畠山政長(畠山尾州家の当主)に仕えていたが、彼は敵対する畠山基家(畠山総州家の当主)を排除するために、時の将軍・足利義材に親征を要請した。

義材はこれに応じて河内征伐を発動し、諸国の大名を率いて河内に侵攻した。ところがこの間隙を衝いて、京都に残っていた細川政元がクーデターを起こした。世にいう明応2年(1493年)の「明応の政変」である。
畠山政長はこれで正覚寺城を包囲されて孤立無援となり、徹底抗戦もむなしく自害。政長の子・畠山尚順はひそかに紀伊国に逃れる事態となった。このあおりを受けて、順盛も本拠地の若江城を追われることになる。以後、情勢が変わるたびに遊佐家は河内の奪還と追放を延々と繰り返し、幼少の長教は各地を転々とする流浪の生活を強いられることになった。

河内国に復帰、父の死で家督を継承

父順盛は一貫して主君の畠山尚順に仕え続けた。河内を失ったとはいえ、尚順には紀伊という地盤があり、ここを拠点として河内奪回の戦いは続けられており、順盛もまたそれに忠実につき従っていた。

河内をめぐる一進一退の戦局が続いていた中、ついに好機が訪れる。永正4年(1507年)、畠山家と一貫して対立していた管領細川政元が養子によって暗殺されるという事件が起こった。以後、政元の3人の養子(細川澄之・澄元・高国)によって細川宗家の家督争いが行われることになる。(永正の錯乱)

この機に乗じて順盛・長教父子は若江城に復帰。尚順も河内を回復してさらに室町幕府政権中枢への復帰も果たした。しかし、 細川宗家の激しい家督争いに加え、足利一門の将軍職の争いもあったことから政局は安定せず、永正8年(1511年)には船岡山合戦が勃発。参戦した父順盛は捕えられて自害し、戦後に長教が21歳にして遊佐家の家督を継ぐことになった。

主君を追放し、河内を支配

家督を継いだ長教は、父同様に畠山尚順に仕え続けながら着々と実力を蓄えていた。

永正14年(1517年)には尚順が隠居して子の畠山稙長に家督を譲渡しているが、この畠山父子がやがて袂を分かつことに…。

すでに中央政権は細川高国が掌握していたが、永正17年(1520年)等持院の戦いの際、将軍足利義稙が高国と敵対する細川澄元と通じていたため、高国と義稙の仲は崩壊し、翌大永元年(1521年)に将軍義稙が京から出奔する事態となる。これに伴って、尚順はいち早く義稙支持を表明したが、稙長は高国とのつながりもあり、畠山父子にも確執が生じたのである。

その後まもなく尚順が没し、稙長が名実ともに河内畠山氏の当主となった。ただし、稙長は次の細川晴元政権と対立姿勢をとるなど、長教とはそりが合わなかったようだ。天文3年(1534年)、畠山家の弱体化を憂いた長教はついにクーデターを敢行して、稙長を追放してその弟の長経を、次いで翌天文4年(1535年)にはもう一人の弟である晴熙を擁立している。

こうした背景には晴元政権との協調路線があったと考えられる。さらに長年対立していたもう一方の畠山家である総州家の重臣・木沢長政と協議して、河内の守護を両家で半国ずつ分割支配する体制を作り上げる。しかし実質的にはそれぞれの守護代となった長教と長政が河内国を支配するようになった。一旦これで河内は安定するかにみえたが、その安定は長くは続かなかった。

目まぐるしく変わる敵味方

幕府管領である細川晴元の了解を得て河内を分割支配する事で合意した長教と長政だったが、やがて長政はその体制に不満を抱くようになり、天文10年(1541年)にはついに反乱を起こす。これに対して長教はこれまでの分割支配体制を改めるため、かつて追い出した主君の畠山稙長と和睦し、河内守護に復帰させた。そして翌天文11年(1542年)年、当時晴元の家臣として急速に力を増していた三好長慶と連合して長政を討ち取ることに成功している。(太平寺の戦い

こうして長教の河内支配は完全なものになっていく。しかしこれは晴元との協調関係によって成り立っている地位でもあった。長教は細川家の勢力伸長を快く思わず、自身もまた晴元と決裂する事になる。

天文12年(1543年)に細川高国の養子である細川氏綱が反晴元の旗を揚げて挙兵すると、密かにこれを支援し、一旦は晴元の追放に成功した長教だったが、天文16年(1547年)には、応仁の乱以降で畿内最大の戦いともされる舎利寺の戦いで晴元重臣の三好長慶に敗れ、結局は晴元と和睦せなるを得なかった。この時、長教は長慶の才能を認めて娘を嫁がせている。

ところが今度は長慶と晴元が決裂する。この決裂には伏線があった。

元々晴元は長慶の父・三好元長を死に追いやった過去があり、長慶にとって晴元は主君であるとともに、父の仇でもあった。この父の死の直接の原因を作ったのが、長慶の伯父にあたる三好政長だと長慶の耳に入れた者…。それは長教なのである。彼は細川政権の屋台骨を支える三好が弱体化する事で、自分の勢力伸長を謀ったのだという説もある。

最期は無惨にも…

こうして天文18年(1549年)江口の戦いが勃発。長教は晴元と袂を分かった長慶に味方して敵対勢力を撃破、事実上の三好政権樹立に貢献した。目まぐるしく変わる政局を巧みに乗り切って生き残ってきた長教だが、その最期は実にあっけなかった。

当時、長教は時宗の僧侶である珠阿弥に深く帰依していた。天文20年(1551年)の5月、長教は自分の城で酒を飲みながら珠阿弥との歓談を楽しんでいたのだが、酔っぱらって横になった。そこを事もあろうに珠阿弥にめった刺しにされたのである。

長教は権謀術数を駆使してこれまで来ており、敵も多かったであろうから暗殺の危険は常にあったと考えられる。一説に当時三好長慶と対立していた13代将軍の足利義輝の手引きによるものとされているが、真相はわかっていない。





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