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「細川氏綱」他力で打倒晴元を実現。三好政権の傀儡か?

両細川の乱で高国派としてバトンを受け、最終的に細川晴元政権を崩壊させ、管領にも就いた細川氏綱。しかし中央政権を牛耳ったのは彼ではなく、「日本の副王」の異名をもつ三好長慶であった。

反晴元の遺志を継ぐ

細川氏綱は、永正11年(1514年)に生まれた人物であり、養父として細川高国、実父として細川尹賢、2人の父親を持つ。

養父の高国は、長期にわたって抗争を繰り広げた宿敵である細川澄元の嫡男・細川晴元との権力抗争に最終的に敗れて自害させられてしまう。実父の尹賢は、高国の家来であったが、享禄元年(1528年)に高国が晴元との戦で決定的な敗北を喫したため、晴元陣営に寝返るものの、享禄4年(1531年)大物崩れで高国が敗死した直後、晴元と不和となって、同7月24日に木沢長政の手で殺害されてしまうのである。

実父と養父の2人がともに晴元に殺害されてしまった氏綱。以後はその復讐に人生を捧げることになる。

高国の死後、高国の弟である細川晴国が石山本願寺と結んで天文2年(1533年)に反晴元の兵を挙げ、兄の仇討ちのために晴元と戦ったが、このとき氏綱は晴国に加担していない。これは高国の後継者争いが起きることを危惧して参加しなかったものとされている。晴国は結局、天文5年(1536年)に晴元と内通した三宅国村に裏切られ、自害に追い込まれた。こうして高国・晴国の仇討ちをすべく、今度は23歳の氏綱が立ち上がる。

連戦連敗

天文7年(1538年)、氏綱はついに反晴元の旗を挙げる。細川上野玄番家の細川国慶と共に和泉国で高国の残存勢力を結集し、時の天下人・細川晴元に挑むも、このときはあっさりと敗北を喫してしまう。
以後も盟友の国慶とたびたび和泉国で挙兵。天文11年(1542年)には堺を包囲するも陥落させることは出来ず、天文12年(1543年)の8月に摂津国住吉郡に矛先を変えて攻勢を仕掛けるも、晴元方の主力である三好長慶に散々に打ちのめされ、同10月には和泉国の山間部に退却を余儀なくされた。 この後も氏綱と国慶は旧高国派と連携し、晴元勢に対してゲリラ戦を仕掛けていく。

天文15年(1546年)の8月、氏綱らは河内守護代の遊佐長教と結んで出陣。氏綱・長教連合軍は破竹の勢いで晴元方の諸城を次々と攻略し、一時は晴元を京から追い出すまでに至った。しかし、11月に入ると、長慶の弟である安宅冬康三好実休・十河一存らの軍勢2万が到着したことで戦況が一変する。

天文16年(1547年)には晴元勢に一気に巻き返され、同7月には再び京都を奪われることになった。その後の晴元勢は、氏綱・遊佐連合軍のいる高屋城まで迫ってきたため、氏綱らも迎撃に向かい、両軍は大阪の舎利寺の戦いで激突となったが、結局は敗戦。またもや和泉国への撤退を余儀なくされることになったのである。

思わぬ形で復讐が果たされることに…

一連の戦いで敗れ、盟友国慶も失った氏綱だが、晴元方の重臣である長慶が突如転じて氏綱陣営に加わることとなる。 これは先の戦いの後、長慶が長年の政敵でもあった同族の三好政長の排除を晴元に求めたが、晴元に却下されたことが一番の原因とされる。この願いを聞き届けられなかった長慶が晴元に反旗を翻したのである。

こうして氏綱に加担した長慶は天文17年(1548年)10月に摂津越水上より出兵、政長の根拠地である河内十七箇所へ進軍して榎並城を包囲し、攻城戦へと突入する。この攻城戦は守勢の頑強な抵抗や晴元から差し向けられた援軍によって長期化するが、翌天文18年(1549年)6月に起きた江口の戦いで、政長は長慶に討ち取られて晴元勢は崩壊、晴元は戦線を脱出し、京都も放棄して近江へと逃れていった。これにより氏綱の復讐は完結したのである。

この戦いの後、長慶は幕府不在のまま京を掌握。一方で京を追い出された晴元と13代将軍足利義輝はその後もたびたび再挙を図るがことごとく失敗。天文21年(1552年)には長慶と将軍義輝が和睦。氏綱が管領になるという条件だったことから、氏綱は長慶とともに上洛し、右京太夫の官位を与えられて細川吉兆家の家督を継いだ。 なお、この和睦で将軍が帰京したが、晴元は納得せずに三好政権と敵対し続けた。

その後、再び将軍と長慶が敵対し、またもや「晴元・将軍 vs 三好政権」の構図となったが、永禄元年(1558年)に将軍と長慶が和睦している。このときも晴元は納得せずに長慶を敵視し続けた。

こうした三好政権下において、管領の氏綱は形式上は長慶の主君であったが、事実上の実権が長慶にあったことはいうまでもない。 三好政権はまもなく長慶の弟である三好実休と十河一存の死、さらに嫡子・三好義興の死や長慶自身の病気も重なって徐々に衰退。そうした中の永禄6年(1564年)正月、氏綱は山城国淀城にて生涯をとじた。享年50。





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