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「木沢長政」その処世術で主家の畠山氏をも凌駕。

木沢長政という名は一般にほとんど知られていない。しかし、その生涯を振り返ると、かなりの野心家で処世術にも長け、抜け目ない人物像が浮かび上がってくる。彼は戦国時代に下剋上を果たした人物の一人でもあるのだから、その事蹟は見るに値するだろう。

畠山氏の被官

木沢長政は三管領の一角・畠山氏の家臣である。長政が生きた時代は、1500年代前半の細川政権期にあたるが、彼の誕生年や前半生については残念ながらハッキリしていない。

このころの畠山氏は総州家と尾州家に分かれて対立しており、長政は総州家5代目の畠山義堯に仕えていた。 一方、中央では細川高国細川晴元が細川家の家督争いと政権争奪戦が繰り広げられ、大永7年(1527年)桂川原の戦いでは、高国が都落ちして政権交代となった。このとき代わりに晴元が足利義維を擁立して堺公方政権の誕生となったが、畠山総州家も堺公方の傘下に入っている。

以後、5年ほど続く堺公方政権。長政はその間に晴元に接近して暗躍していくことになる。

晴元に接近し、下剋上を狙う

京を逃れた高国は再挙を図り、やがて播磨の浦上村宗と結んで挙兵。こうした事態に長政は京都の防衛を任されたが、享禄4年(1531年)3月に高国軍が京に迫った際には突如京から撤退。その後、同6月の大物崩れで高国らが滅んだ後に再び姿を現しており、翌7月には晴元の命を受けて、摂津でかつて高国派だった細川尹賢を自害させている。

高国の死後は、晴元の行動によって堺公方政権が内部崩壊へと向かう。
晴元は足利義維をないがしろにして、高国派だった将軍足利義晴と和睦しようとしたため、家臣の三好元長や畠山義堯らが反発。 一方、長政は晴元に接近する姿勢を見せていたため、やがて主君の義堯からも危険な存在とみられるようになったようだ。 このため、元長を敵視する三好政長と結託し、裏で晴元に讒言するなどの工作を行った。

こうして徐々に対立の構図が浮き彫りとなっていき、享禄5年(1532年)飯盛城の戦いが勃発。長政はこのとき畠山義堯・三好元長連合軍に包囲されて窮地となったが、晴元に援軍を要請。最終的に晴元の要請で蜂起した一向一揆によって窮地を乗り切った。なお、このとき敗れた義堯と元長はともに討たれている。

晴元政権下での躍進

一向一揆軍は義堯・元長らを討った後、暴走して対立宗派との衝突などを起こしたため、長政はその対応と鎮圧に追われている。 その後、一向宗の力に恐怖を感じた晴元は、法華宗と結んで一向一揆を討った。(山科本願寺の戦い

天文3年(1534年)には、晴元と将軍義晴の和睦が成立して晴元政権が誕生。同年に長政は元長の遺児・三好長慶と晴元の和睦を仲介して、長慶を晴元の従属化にすることに貢献している。また、晴元政権と一向宗との関係回復に向け、本願寺と書簡や進物のやり取りも盛んに行ったとみられる。

このように長政は、畠山総州家の家臣の身でありながら、主家を超えて晴元政権下における要人にまで台頭したのである。

畠山氏の実権を掌握

ところでこの頃の畠山氏の実権はどうなっていたのだろうか?

総州家は畠山義堯の死後、子の在氏が当主となったが、実権はすでに長政が握っていた。 尾州家は当主の畠山稙長が反晴元の姿勢をとっていたため、重臣の遊佐長教が長政と結託し、晴元政権の誕生とともに稙長を紀伊に追放している。

天文7年(1538年)には長政と長教が交渉して、両畠山氏の和睦を成立させ、尾州家と総州家の共同統治を採用。ここに畠山氏の実権は長政と長教の二人が握ることになった。

最期は晴元と対立し…

その後、長政は河内国だけでは満足できずに幾内各国へも侵略していったが、晴元配下の三好長慶が天文8年(1539年)に摂津の越水城を与えられてから幾内で急速に勢力拡大したのもあり、その威勢は長くは続かなかった。それどころか畠山家中で長教との覇権争いが生じ、長政の先行きに暗雲が立ち込めることになる。

そして天文10年(1541年)、高国派とみなされた一庫城の塩川政年の処遇を巡り、摂津国人の伊丹親興や三宅国村とともに晴元や長慶と対立。京都へ進軍して12代将軍義晴を支持しようとするが、義晴・晴元らは京から退去。こうして長政は幕府に背いた逆賊となり、味方の離反も相次ぐ事態となる。
天文11年(1542年)3月、遊佐長教が晴元・長慶らへの支持を表明すると、河内高屋城では尾州家の畠山弥九郎が追放され、代わりに畠山稙長が長教と和睦して当主に復帰して、長政はいよいよ孤立。 最期は太平寺の戦いで幕府軍と戦って敗戦し、追撃されて討死となった。


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