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足利義昭が信長と不仲になった原因とは?

足利義昭の坐像(等持院霊光殿安置)
足利義昭の坐像(等持院霊光殿安置)

足利義昭と織田信長の関係といえば、最初は「もちつもたれつ」という良好な関係でした。京から逃亡していた義昭が、室町幕府の将軍になれたのは、信長に擁立されたおかげであり、信長も勢力拡大のために将軍権力を利用できたからです。
将軍となった義昭は、信長を「父」と慕うほどに信頼していたようですが、やがてその関係は冷え込み、最終的には敵対。

── 両者の関係が一転して不仲になってしまったのは一体ナゼ? ──
今回はその背景や原因に迫ります。
(文=ろひもと 理穂)

初ケンカで信長が突如帰国

両者が初めて衝突したのは永禄12年(1569年)10月だと考えられています。

この年の8月、信長は10万ほどの軍勢を率いて南伊勢の北畠氏を攻めました。しかし予想外の抵抗を受け、なかなか落城させきれない中で10月まで包囲を続けています。ここで存在感を発揮したのが義昭だったようです。
このとき将軍となっていた足利義昭は、和睦の仲介役となり、信長に有利な条件で開城させることに成功しました。信長の次男・織田信雄が義嗣子となり、南伊勢は事実上信長の勢力に吸収されたのです。

その後、上洛した信長が御所を訪ね、義昭に報告します。しかし一週間もしないうちに信長は怒って突如美濃へ帰国してしまいます。これには正親町天皇も驚いて理由を確かめようと記録されています。義昭の姿勢に立腹した信長は、朝廷にも義昭にも報告せずに勝手に帰国してしまったのです。

義昭と信長の思惑の違い

義昭は将軍に就任し、室町幕府の威信を取り戻そうという理想を掲げていました。つまり義昭からすれば、信長は幕府に仕える家臣の一人に過ぎないというわけです。

一方、信長はそもそも足利義昭を主君と慕って将軍に擁立したわけではありません。自らの存在感と発言力を高め、勢力を拡大するために利用したというのが一般的な見方です。

このように義昭の将軍就任以降、両者の思惑の違いは次第に色濃くなり、関係悪化が進んでいきます。

結局、初ケンカの理由はハッキリとしていません。ただ、北畠との和睦交渉で信長に借りを返した形になった義昭が自信を取り戻し、信長に対して尊大な姿勢をとった、というような見解は存在しています。

将軍義昭にクギを指す信長

将軍を傀儡化し、諸大名の支配権を確立しようとする信長

義昭が将軍として存在感を発揮していくと、いずれは信長に不利な命令や不利な待遇が発生する可能性があります。信長としては、これ以上義昭がでしゃばった真似ができないように牽制しておく必要がありました。

また、信長には、義昭に代わって諸大名を支配しているという姿を世間に見せつける必要もありました。信長はいわば将軍代行だということを示したかったわけです。そのために信長は書状をしたためます。

ひとつは義昭に対する「五カ条条書」、もうひとつは諸大名に対する「信長触書」です。これらは永禄13年(1570年)正月、同時に作成されたと考えられています。

五カ条条書と信長触書

五カ条条書は、政治のことは信長に任せ、勝手に大名に御内書で命令を下したりしないようにという内容で、完全に義昭に対する締め付けです。余計なことはするなよと信長は義昭にクギを指したことになります。これが、初ケンカの後に信長が義昭に突き付けた和解の条件なのです。

信長触書は、「信長が上洛するから、他の大名もそれを真似て上洛するように」と呼びかけたものです。かなり広い範囲に届けられたようで、甲斐の武田や越中の神保、出雲の尼子にまで声がかかっています。

さらに信長は将軍の上意、天皇の勅命を受けて上洛の求めに応じない朝倉討伐のために出陣。これは金ヶ崎の戦い姉川の戦いが該当します。

こうした出陣には幕臣の姿も、朝廷側で将軍に奉公している公家衆の姿もありました。信長は将軍代行であることや、朝廷の保護者であること、大名の支配権を持っていることをはっきりと示したのです。

表面上は協力関係を維持するが…

信長包囲網の形成

信長の義昭に対する扱いが明確になったところで、義昭が打倒信長に目を覚ましたように思われていますが、実際はしばらく融和状態が続いていたようです。

しかし、信長包囲網は確実に形成されていきました。信長と敵対関係にあった本願寺、そして激戦を繰り広げてきた朝倉、浅井、さらに三好や松永などが信長に抵抗しています。そうした中、反信長の最大勢力となった武田信玄は、元亀3年(1572年)前半までは信長とは対立していませんが、水面下で義昭らと通じていました。

信長と義昭の共同戦線

どうして義昭が信長と対立していなかったとわかるのでしょうか?それは信長の軍勢と義昭の幕府軍が協力して三好義継松永久秀と戦ったという記録が残っているからです。

信長が近江の浅井長政との戦いに比重を置いたのを確認して、義継と久秀は畠山を攻めました。その援軍として駆けつけたのが信長の軍勢と幕府軍なのです。本願寺も加わって力が増した義継と久秀でしたが、信長と義昭の共同戦線には対抗できずに敗北しています。

少なくとも元亀3年(1572年)前半までは、義昭は信長と協力関係を維持したままだったことになります。

敵対は十七カ条の異見書が原因?

十七カ条の異見書とは?

元亀3年(1572年)9月、信長は義昭の失政を厳しく指摘します。それが十七カ条の異見書です。信長の許可なく大名へ御内書を遣わしている件や、私情にかられた人事や待遇をしている件などを含め、義昭の人格を否定するような内容まで書かれています。

信長はこの書状を義昭にだけでなく、広く世間に流布しました。義昭は将軍としてふさわしくないということを世間にアピールするためです。信長はこうして将軍である義昭と戦う大義名分を得ようとしたのでしょう。

両者が激突するのはもはや明白でした。そう考えてみると、十七カ条の異見書が敵対の原因というよりも、敵対関係を明確にしたタイミングがこの時だったと考えるべきかもしれません。このタイミングは信玄の上洛の動き(西上作戦)とも連動していました。

信玄の上洛開始と義昭の挙兵

元亀4年(1573年)2月、ついに義昭が打倒信長の兵を挙げます。ちょうど信玄の体調悪化によって西上作戦が停滞した時期です。それ以前から義昭は頻繁に信玄に御内書を遣わしており、挙兵の時期を探っていたと考えられます。信長もその動きを察知していたことでしょう。

万全の準備を整えて甲府を出陣した信玄の進軍を止めることは至難でした。信長の同盟相手である徳川家康は信玄に三方が原の戦いで大敗しています。ただ、信長らにとって幸運だったのは、信玄が西上作戦の途上で病に倒れて亡くなったことです。

脅威が無くなった信長は義昭に対して、周辺を焼き討ちするなどしてプレッシャーをかけつつ和睦の交渉を進めますが、義昭は頑なにこれを拒否し続けました。一時は朝廷の仲介で和睦するのですが、義昭はその後も再度挙兵、最終的には信長に降伏し、同年7月には京都を追放されてしまうのです。

まとめ

信長は、義昭が大人しくしていたら室町幕府を存続させていたかもしれません。
実際、信長は義昭が挙兵後も、再三にわたって講和を申し入れているし、義昭を討ち取ることもしていません。 世間体を気にして将軍を討つようなマネをしなかったとも言われますが、信長は元々幕府を滅ぼすつもりはなかったのです。

義昭追放によって室町幕府は事実上滅亡となりましたが、それは義昭が将軍としての権威を維持するために、信長を敵視し続けた結果ともいえます。その頑なな姿勢は京から追い出されたあとも続きました。

彼は打倒信長のため、執念深く再び諸大名に御内書を送ったり、中国の毛利氏を頼ったりと、精力的に活動しまくるのです。





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