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「大河内城の戦い」伊勢の国司・北畠を降す!
──永禄12年8-10月(1569年)

大河内城跡の石垣
大河内城跡の石垣
大河内城は伊勢の国司・北畠氏の本拠である。北畠氏の本拠は元々は霧山城(きりやま)だったが、織田信長の侵略によって大河内城に移ってきたようだ。北畠氏はこの「大河内城の戦い」で信長に降伏して従属下に置かれ、やがて信長に抹殺される運命をたどる。

合戦マップ

時期永禄12年(1569年)8月24日
勢力織田信長 × 北畠具教
場所伊勢国・大河内城(現在の三重県松阪市大河内町城山)

合戦の背景

伊勢国は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、織田信長が美濃攻めを行っていた頃から、織田軍による伊勢侵略も開始されたとみられている。

永禄11年(1568年)2月には、信長が伊勢の国人領主・神戸氏を降伏させ、三男・三七郎(のちの織田信孝)を養子に送り込んで北伊勢をほぼ手中に治めた。そして同9月に信長が上洛を果たすと、伊勢攻略はまもなく大詰めを迎えることになる。

南伊勢はまだ北畠氏の支配下にあったが、翌永禄12年(1569年)の5月に、信長家臣の滝川一益が源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じて北畠具教の弟の木造具政(こづくり ともまさ)を調略によって味方につけた。

なお、具教は北畠氏の前当主であり、このときは既に隠居していたものの、その実権は依然として握り続けていた。彼は5月12日に木造城を包囲して攻撃(『桑名志』)したものの、滝川一益や神戸氏・長野氏の援軍もあって、8月に入っても木造城を落とせずにいた。

合戦の経過・結果

こうした状況の中、上洛作戦を終えて美濃国に戻っていた信長は伊勢平定に向けて動き出した。

8月20日、総勢7万ともいわれる大軍を率いて岐阜を出陣し、桑名(三重県桑名市)まで進軍。翌21日は鷹狩りをして駐留。そして同23日には木造城に着陣し、この日は雨が降っていたために駐留した。北畠の軍勢はこのとき既に木造城の包囲を解いて大河内城へ籠城していたといい、その兵数は約8千であったという。

26日、織田方の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が先陣を務めて阿坂城を攻撃、塀ぎわまで攻め寄せて浅い傷を受けて一旦後退したが、再度攻めたてて落城させた。続いて信長は他の支城を無視して北畠具教・具房父子が立て籠もっている大河内城へ進軍。28日には四方より大河内城を包囲し、城の周囲に鹿垣を2重3重にめぐらし、さまざまな方面からの道を遮断したという。

9月8日には、信長は丹羽長秀池田恒興・稲葉良通に夜討ちを命じ、3隊に分かれて攻めかかった。しかし、雨が降り出したために味方の鉄砲は役に立たなかったという。翌9日には兵糧攻めで攻略するつもりで陣を置いており、滝川一益に命じて多芸の谷にある国司の館をはじめとして、その近辺をことごとく焼き払い、稲作をなぎ払って捨てさせたという。
籠城の用意も不備のままに大河内城内へと駆け込んだ者もあり、城内では徐々に餓死者も出始めるようになる。

そして10月3日、ついに北畠具教・具房父子は降伏し、和睦という形で決着がついたのであった。この時の和睦の条件は以下、織田側に有利なものとなった。

  • 信長の次男である茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養継子とすること。
  • 大河内城を茶筅丸に明け渡し、具房、具教は他の城へ退去すること。

こうして信長は伊勢国をほぼ平定、のちに北畠具教を抹殺して完全に伊勢攻略を終えることになるのである。





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