丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「大うつけ」と呼ばれた信長の元服・初陣、家督継承まで。
──天文15-21年(1546-52年)

信長の元服・初陣

天文15年(1546年)、吉法師は家老4人を伴って父・信秀の居城の古渡城に赴き、元服して"織田三郎信長"を名乗ることになった(『信長公記』)。
このときの元服の式では酒宴が催され、同時に加冠の式などが行なわれた。

"三郎"という名は父・信秀も称した仮名であり、"信長"の "信" という字は弾正忠系織田氏の通字である。
ちなみに一説によれば、この"信長"の命名について、これを依頼された禅僧の沢彦宗恩が、将来天下を掌握するめでたい名として選んだものであるという(『政秀寺古記』・『張州府志』)が、定かではない。

このときの信長は13歳であった。

天文16年(1547年)、元服を果たした信長はさっそく、今川義元方の三河国(愛知県)吉良の大浜城の攻略のために出陣して初陣を飾っており、このときの後見役は平手政秀が務めたという(『信長公記』)。
なお、同年には信秀は古渡城を破却して新たに末盛城を築いて居城としている(『信長公記』)。

「大うつけ」呼ばわりの青年信長

信長の16歳~18歳頃までは特にこれという遊びにふけることもなく、馬術を朝夕に稽古し、3月から9月までは川で泳ぎの鍛錬をして泳ぎは達者であった。また、竹槍の訓練試合を見て、槍の柄の長さをより長く揃えさせるなど、槍の長さの有効性にも気づいており、弓・鉄砲・兵法の稽古や鷹狩りなども好んで行なっていたという(『信長公記』)。

信長の青年期の日常は戦国武将に欠かせない鍛錬そのものであったようだ。しかし、身なりや振る舞いといえば、世間からみて問題だったようである。

信長の服装はゆかたは袖をはずし、半袴、火打ち袋などをぶら下げていた。さらに髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)でそれを紅や萌黄色の糸等で結び、朱色の大刀を差しており、従者にも皆、朱色の武具を着けるように命じていたという。

大うつけ時代の<a href='https://sengoku-his.com/nobunaga'>織田信長</a>の姿
大うつけ信長の様相(出典:中日新聞プラス

また、行儀の悪さとしては、町中を歩きながら、人目もはばからずに栗・柿・瓜等のかじり食い、餠の立ち食いなど…。さらに人に寄りかかっては人の肩にぶらさがって歩くなどしていたという。

こうした様子をみた周囲の人々は信長を「大うつけ」としか言わなかったという。

父信秀の死と家督相続

信長19歳の天文21年(1552年)3月、父信秀が疫病にかかって色々と祈祷や治療をしたが、結局治らずに末盛城で没した。信秀を生前に建てた万松寺の前住職とすることにし、国中の僧侶を集めた信秀の葬儀は盛大に執行され、僧侶は約三百人にも及んだという。 (※信秀の没年については諸説あり)

このときの信長の奇行は有名。
焼香に立った信長は不適切な出で立ちで、抹香をわしづかみにして仏前めがけて投げつけたという。これに対して弟の信勝は折り目もしっかりした肩衣に袴を着る正装姿であり、礼にかなった作法であった。信長について皆「あの大馬鹿者が」と口々にうわさしたが、ある旅僧一人だけが「あの方こそ国持ち大名になるお人だ」と言ったという(『信長公記』)。

この信長の奇行の理由は、以下のようにいくつかの見解があるが、いずれも定かではない。

  • 家中や他国勢力に、自分が後継者であることをアピールするために行なった。
  • 神や仏に対して信仰心がないこと(否定すること)を、葬儀の場で示した。
  • 信秀の死による家中の混乱の中、反乱分子をあぶりだすため、"うつけ"ぶりを演じた。
  • 父の死を悲しみ、単に惜しむ気持ちが高ぶった。

こうした中で嫡子の信長は19歳で家督を継ぎ、弟の信勝は柴田勝家佐久間信盛らを付されて末盛城に入った。そして、尾張に一大勢力を築いた信秀の死は尾張国内の動揺と混乱のはじまりとなる。


 PAGE TOP