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信長が掲げた「天下布武」とは?

天下布武の印章(出典:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7" target="_blank">wikipedia</a>)
天下布武の印章(出典:wikipedia
「天下布武」とは、織田信長を語る上で欠かせない、戦国史の重要なキーワードのひとつである。一般的には天下統一への野心を表明した、信長一流のスローガンと捉えられているだろう。だがその実際は、時代背景を踏まえたより深い意味を含んでいる。信長が天下布武を掲げることになった経緯と共に、その言葉の意味合いを見ていこう。

岐阜に入って使い始めた「天下布武」

尾張を統一した織田信長が次の戦略目標に掲げたのが、美濃平定である。

永禄2年(1559年)に尾張統一をほぼ成し遂げ、翌永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで駿河の太守・今川義元を討った信長は、今川から独立した三河の徳川家康と同盟を結ぶ。東方の憂いを無くした信長が北の隣国美濃を狙うのは妥当な成り行きであった。

実のところ、信長の美濃攻略はかなりの時間を要した。美濃の大名斉藤家が頑強に抵抗し続けたためである。全般的には尾張勢が徐々に美濃を侵食していくが、最終的に美濃の本拠地・稲葉山城が陥落したのは永禄10年(1567年)であり、桶狭間から7年がかりの攻略戦であった。信長は美濃を攻略するや否や、自ら稲葉山城に移って ”井ノ口” と呼ばれていたこの地の名を "岐阜" と改める。本拠地を軽々と変えていく信長の果断さがよく表れているが、この岐阜の地に入って使い始めたのが「天下布武」である。

天下統一の意思を明らかに

「天下布武」の言葉を考えたのは、信長のブレーンとされる禅僧沢彦(たくげん)である。 古代中国の史書「春秋左氏伝」にある、”七徳の武を備えた者が天下を治める”との逸話に由来するという。沢彦については史料が少なく、その実像ははっきりしないが、中国の故事にならって岐阜の地名を考えたのも沢彦と言われている。

信長は岐阜に本拠を移すと、早速様々な法令を発布していく。その際、文書に捺印された印判の文句が「天下布武」だった。当時の署名はサインに当たる花押とハンコに当たる印判があり、印判の場合は名前でなく熟語を使用していた。小田原北条氏の虎の印判などが有名で、そこに記された熟語は、大名の政治姿勢を表す重要な意味を持っていたのである。 そこに「天下布武」を用いた信長の意図は明確だろう。自らが京都に乗り込み、中央政権を押さえて天下に武を布く意思を露わにしたと考えられる。現に美濃平定のわずか1年後、永禄11年(1568年)には将軍家の足利義昭を陣営に招き入れ、大軍勢を率いて上洛し天下統一戦争をスタートさせている。

天下布武の「武」の意味

ここで気を付けたいのが、天下布武の「武」である。武力で天下を統一する、と解釈されることが多いが、戦国時代にあってはごく当たり前の話で、4文字しかない熟語にわざわざ使う意味は薄い。

天下布武の「武」は武家、すなわち武士を指している。”武士が天下を統一する”がより正確な意味である。 当時の特権階級を権門といい、3つの勢力があった。武士の武家、寺社の寺家、朝廷の公家の三者である。江戸時代は寺家と公家が衰え、武家の時代になるので、戦国時代もすでに武家が全国を支配していたイメージが強い。しかし実態は異なり、この頃は寺家と公家もかなりの勢力を持っていた。比叡山延暦寺などはいい例で、広大な領地と多数の僧兵を抱え、大名と変わらない威勢を誇っている。天皇の勅命による講和調停を大名たちが受け入れたのも公家が権勢を持っていたからだし、石山本願寺が信長に対して10年間も徹底抗戦を続けられたのも同様である。

武家による政権が鎌倉幕府から始まり、その後戦国時代までの約400年で武士は着々と勢力を増し、寺家と公家を圧迫してきた流れがあった。信長はそうした歴史の流れを踏まえ、既得権益にすがる古い権門の寺家と公家を武力で排し、武家による天下統一を目指したのだ。信長が官位を求めず、寺社勢力と激しく戦った理由はそこにある。「天下布武」とは、歴史的な政権交代を狙う信長の野心を、鋭く言い表した表現なのである。

信長死後、30年を過ぎて実現

信長自身は天正10年(1582年)の本能寺の変で倒れ、天下布武を見届けることはなかった。だが、延暦寺や本願寺の一向一揆と徹底して戦い、寺家勢力を衰えさせることには成功している。やや大袈裟だが、日本の政教分離の第一歩が信長に始まると見ることも出来るだろう。

信長の跡を継いだ豊臣秀吉は、一時的に朝廷の権威を利用した天下政権を意図し、公家の官位を濫用したが結果的に上手くいかなかった。秀吉政権の失敗を受けた徳川家康は、官位を公家と武家で完全に分ける策を編み出し、公家を政権から排除した。有名な武家諸法度の公家版である禁中並公家諸法度は、簡単にまとめると公家を禁中(朝廷)だけに押し込め、政治への関与を禁じる法律である。 こうして江戸時代には寺家と公家は政治から排除され、武家が全国を支配する統一政権が完成した。信長の目指した天下布武は、禁中並公家諸法度が発布された慶長20年(1615年)を目安とすれば、彼の死後30年以上が過ぎて実現したと言えるだろう。

江戸時代に完成した「天下布武」

「天下布武」は信長が天下統一を目指したスローガンであるだけでなく、当時の権門であった寺家と公家を武力で排除し、武家による統一政権を狙う意図を含んだ表現だった。歴史の流れを踏まえた革命的な野心だったが、本能寺の変で倒れた信長自身はその行く末を見届けることはなかった。しかし秀吉の失敗を受けた家康によって受け継がれ、武家による統一政権、すなわち「天下布武」は江戸時代を待って実現したのである。





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