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【家紋・家系図】柴田勝家の出自のほか、家族や子孫も丸ごと解説!

柴田勝家の家系図や家紋をとりあげ、その出自を探ると同時に、勝家ファミリーの面々を一挙に紹介。また、勝家の血脈を受け継いだ子孫についても触れていく。

勝家の家紋

勝家が使用していたとされる家紋は "二雁金(にかりがね)"

「二雁金」<a href='https://sengoku-his.com/nobunaga/detail/494'>柴田勝家</a>の家紋

二雁金

「丸に二雁金」柴田勝家の家紋

丸に二雁金

雁金とは、カモ目カモ科マガン属に分類される野鳥であり、北極圏に繁殖地を持つ渡り鳥。日本には主に北海道や宮城県など、冬鳥として少数が飛来してくるという。

二雁金は、この雁金をモチーフにしたの家紋のひとつである。上下に2羽の雁金が配置されているのが特徴だが、勝家の場合は上の雁金が雄で、下が雌といい、雄のくちばしは開いているという。なお、"丸に二雁金"は、江戸時代の記録に残っている柴田氏の家紋のようだ。

勝家の出自と家系図

勝家の祖先は清和源氏より出た斯波氏の支流だったといわれており、始祖は柴田修理大夫義勝とされている。その義勝は越後国柴田(現在の新潟県新発田市)に居住し、同地の地名をもって柴田氏を称するようになったという。

一説に勝家の祖父が義勝といい、勝家の父は土佐守を称していたという。また、勝家には2人の姉と1人の妹がいたとみられるが、実はこうした勝家の出自、父母、兄弟姉妹、妻子に関する情報はほとんど確証がないのだ。というのも、勝家が歴史の表舞台に登場したことで、柴田氏が知られるようになったからである。

勝家には実子がいたようだが、早世したために養子を迎えている。このため、残念ながら子孫には勝家の血脈が受け継がれていない。

勝家の妻子・子孫

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お市の方

勝家の正室。織田信長の妹であり、かつては浅井長政の正室だった。信長死後に勝家と再婚したが、1年足らずの夫婦生活だったために、勝家との間に子はもうけていない。最期は賤ヶ岳の戦い(1583年)で敗れた勝家と共に、越前北ノ庄城内で自害した。
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勝敏(かつとし)

勝家の養子。勝家から通称の権六を与えられている。母は勝家の妹という説の他、勝家の実子という説もある。16歳にして京都で自殺したとも、賤ヶ岳の戦い(1583年)の後に秀吉軍に捕えられて処刑されたとも言われる。
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勝政(かつまさ)

勝家の養子であり、甥にもあたる。父は佐久間盛次で、母は勝家の姉(または妹)といわれている。賤ヶ岳の戦いで討死したとも、秀吉から許されて金森長近に仕えたとも伝わる。子に柴田勝重、柴田勝次がいる。
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勝豊(かつとよ)

勝家の養子であり、甥ともいわれている。父は勝家の家臣・吉田次兵衛の子というが、今井次兵衛や渋川八左衛門という説も。母は勝家の姉という。
信長死後の清洲会議で、勝家の所領となった近江国・長浜城の守備を任されたが、秀吉に攻め込まれると大谷吉継の調略を受けて秀吉方に寝返った。賤ヶ岳の戦いの直前にて病死した。
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勝重(かつしげ)

勝家の孫。賤ヶ岳の戦い(1583)で勝家が敗れたときは、まだ幼く、北ノ庄を脱出して母方の祖父祖父・日根野高吉に逃れ、養育されたという。慶長4年(1599)に徳川家康に仕え、関ヶ原合戦(1600)、大阪の陣(1614-15)に従軍して功をあげた。

勝家の子孫は、勝重以降も江戸幕府の旗本として家名を残していったようだ。だが、先に述べたように勝家の血脈は受け継いでいない。

勝重を祖とする柴田三代の墓は、東京都三鷹市の春清寺にあるが、江戸後期に柴田勝房が柴田氏の代々の歴史を刻んだ石碑を同寺に立てている。なお、現代において勝家の子孫は以下のような方々がいる。

  • 柴田勝次郎氏:九州柳川柴田氏当主。柴田勝家の有名な肖像画を所有している。
  • 平山郁夫氏:日本画家で東京芸術大学の学長を務めた。2004年、北の庄城址・柴田公園が完成した際の式典に参加している。





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