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「加賀平定」柴田率いる北陸方面軍は苦戦の連続だった!!
──天正8年11月(1580年)

越前国の平定後まもなく、柴田勝家を指揮官として組織化された北陸方面軍団。彼らの最初の目標は加賀国を制圧することにあったが、これを達成するのに実に4年もの期間を費やしている。一体なぜそれほどの時間を要したのであろうか?

一向一揆との戦いで戦局は長年膠着

加賀国は長享2年(1488年)頃より一向衆が在住し、次第に本願寺勢力が浸透していった国である。一向一揆の抵抗力が強いことは、織田信長がかつて三度にも渡って戦いを繰り広げた伊勢長島一向一揆をみれば分かるだろう。 柴田勝家は天正4年(1576年)頃より北陸方面軍を率い、この難敵と一進一退の攻防を長期にわたって繰り広げていったのだ。

なお、敵は一向衆だけではなかった。信長と同盟関係にあった越後の上杉謙信は、この頃に本願寺勢力と和睦して信長の敵になってしまったのだ。その謙信が越中・能登を制圧すると、天正5年(1577年)には加賀へも進出。このとき勝家ら北陸方面軍は手取川の戦いで上杉軍に敗れている。だが、勝家にとって幸いなことに謙信が翌天正6年(1578年)に病没し、上杉家で家督争いが生じたことで、少なくとも加賀国において上杉軍と戦うことはなかったようだ。

それでも加賀攻めはなかなか進まなかったとみられる。というのも、翌天正7年(1579年)の8月の時点において、勝家らが加賀能美郡の安宅・本折・小松(以上現石川県小松市)近辺を放火して刈田を行っているからだ。つまり、この地域はまだ制圧していなかったということになる。

このように戦局は膠着していたが、天正8年(1580年)に入ってからは信長と本願寺顕如との間で講和の動きがはじまる。同じ頃、これに反するかのように勝家ら北陸方面軍の攻勢が強まった。


本願寺との講和をきっかけに!?

同年の2月29日には、一揆方の能美郡別宮城(二曲城)の城主・鈴木義明が味方に援軍を求めている書状が残っていることから、勝家が別宮城を攻め立てていたことが伺える。また、閏3月5日には信長と本願寺との和睦が成立となっているが、4日後の9日に北陸方面軍が金沢の近くの野々市砦(現石川郡野々市町)を陥落させ、続いて能登との国境あたりまで進出している。このときの攻撃によって一向一揆の司令塔・金沢御堂は滅んだとみられている。そして11日には信長から加賀での戦闘中止命令が勝家に出された。

だが、これで本願寺と織田の戦いが完全に終結したわけではなかった。
本願寺顕如は和睦条件にしたがって4月に大阪を退去したものの、彼の嫡子・教如は反信長の姿勢を貫いており、加賀をはじめとする諸国の一向宗門徒に対して徹底抗戦の檄を飛ばしていたのだ。一方で信長も勝家に停戦命令を出しておきながら、その後まもなく勝家に加賀での戦闘をあおり立てているという有様であった。

和睦条件の中には、”信長に従順であれば、加賀二郡(石川郡・加賀郡)を本願寺に返付する”という一条がある。 しかし、これに従った場合、信長は加賀を完全支配することができない。幸いにもいまだ加賀一向一揆勢力は好戦的であったことから、信長は勝家に加賀での戦いを続けさせたのだろう。

両者の戦いは同年11月まで続き、勝家はついに加賀を平定したのである。


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