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「金ヶ崎の退き口」耳を疑った義弟・浅井長政の謀反。
──元亀元年4月(1570年)

天筒山展望台から見た金ヶ崎城跡(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E5%9F%8E" target="_blank">wikipedia</a>)
天筒山展望台から見た金ヶ崎城跡(出所:wikipedia

合戦マップ

時期元亀元年(1570年)4月
勢力織田・徳川連合 × 朝倉氏
場所越前国敦賀郡金ヶ崎(現在の福井県敦賀市)

合戦の背景

信長は征夷大将軍・足利義昭の名目で各地の大名に上洛を促すが、朝倉義景は度々これを無視していた。
これに対して信長は義景に叛意ありとし、元亀元年(1570年)4月、家康とともに3万の連合軍を率いて京都から直接、朝倉氏の越前国へ出陣することにした。

各勢力の参戦武将は以下のとおりである。

▼織田・徳川連合軍 ▼朝倉軍
  • 朝倉義景
  • 朝倉景恒
  • ほか…

合戦の経過・結果

同23日、織田・徳川連合軍は佐柿(福井県三方郡美浜町)の栗屋勝久の城に着陣、翌24日は駐留。25日に越前の敦賀方面に侵攻すると、ただちに手筒山城を攻撃してまもなく陥落させた。続いて手筒山に並び、朝倉景恒(かげつね)の立て籠もる金ヶ崎城を攻撃。26日にも再度金ヶ崎城を攻め立て、朝倉景恒を降伏・開城させている。

一方、朝倉軍は引壇(敦賀市疋田)の城も退去し、戦線が狭く防御に向いた地形の木ノ芽峠一帯を強化し、防衛体制を整える。一説に、このとき朝倉家中では、朝倉景恒へ向けた援軍を故意に遅らせたという。朝倉一門衆における序列争いがその背景にあったらしい。

浅井がまさかの裏切り

織田方は続いて木ノ芽峠を越えて越前中央部へ侵攻する計画を立てており、優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟・浅井長政が叛旗を翻したとの報が入った。このとき、信長は「虚説たるべき」と述べてとりあわなかったという。しかし、次々に入る知らせに認めざるを得なくなったようである。

こうして越前・朝倉軍と北近江・浅井軍の挟撃を受ける危機となった信長は撤退を決意する。

織田軍が長政の裏切りを察知した理由に、『朝倉記』では近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいて通報したとされている。また、『朝倉家記』にはお市の方が両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送って長政の裏切りを知らせたと言う逸話がある。

撤退の際、信長は金ヶ崎城に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を残した。近江豪族の朽木元綱の協力もあり、信長はかろうじて越前敦賀から朽木を越え、30日に京へ逃げ延びることに成功したのであった。このときの信長の供はわずか十人程度であったという(『継芥記』)。また、池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、京へとたどり着いた。

このように退却戦で危機的状況であったことから、この戦いは金ヶ崎の退き口(かねがさきののきくち)や金ヶ崎崩れ等とも呼ばれる。

戦後

信長にとって義弟の裏切りはよほど許せなかったのだろう。翌5月には本拠の岐阜城へと戻って出陣の準備をすると、6月には報復のためにさっそく出陣して浅井討伐に向かっている。この報復戦が有名な姉川の戦いであり、浅井・朝倉連合を撃破することに成功するのである。





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