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「有岡城の戦い」信長に背いた村重の運命は如何に!?
──天正6-7年(1578-79年)

伊丹市立博物館蔵『伊丹荒木軍記』
伊丹市立博物館蔵『伊丹荒木軍記』
有岡城の戦いは、信長の家臣で有岡城主の荒木村重が謀反を起こし、同城で行なわれた籠城戦である。

合戦マップ

時期天正6年7月~同7年11月(1578-79年)
勢力織田信長 vs 荒木村重
場所摂津国有岡城(現在の兵庫県伊丹市伊丹1丁目)

合戦の背景

天正6年7月(1578年)、当時の荒木村重は秀吉の行なっていた三木合戦に従軍していたが、突如戦線を離脱して有岡城へと籠城。つまり、織田信長への謀反を起こした。
これを知って驚いた信長は、原因を明らかにするために使者を派遣。さらには高槻城の高山右近も村重の説得に有岡城へと向かい、村重も一旦はこの説得を聞き入れた。しかし、中川清秀や他の家臣たちの「信長の元に出向いても切腹を命じられるだけ、摂津国で戦うべきである」との意を受け、不本意ながらも信長へ反旗を翻すこととなった。高山右近もまた、村重に人質を差し出していたことから、村重に加担する立場に置かれた。

信長は残虐な恐怖政治を行うことで恐れられていた一方、村重は短気・頑固ではあるが、穏やかな性格の持ち主だったようだ。 村重はこの戦いで、高山右近の人質や明智光秀の娘を殺さずに送り返したといい、合戦中に討てるであろう大敵を見逃したとの逸話も残っている。このように人の命を大事にする村重が、信長のやり方に付いていけなかったというのが謀反の原因とも考えられている。

合戦の経過・結果

有岡城の戦いが始まると、摂津を任されていただけに合戦上手だった村重は、毛利や本願寺と同盟を結ぶと同時に、有岡城の周りに強固な砦を構築。織田軍は思うように戦いを進めることができなかった。
しかし、信長は熱心なキリシタン大名でもあった高山右近の切り崩しにかかった。すなわち、信長からの迫害を心配する宣教師たちを捕らえて脅迫し、結果的に右近は人質と宣教師の両方を救うために信長に出頭、高槻城は織田方に降ることになった。 さらには右近に次いで、中川清秀、大和田城・多田城・三田城も信長に寝返ることとなり、動揺した兵士の逃亡も重なって1万~1万5千ほどあった村重方の兵力は、5千ほどにまで激減したという。

織田軍の本格的な有岡城の奪取は同年12月8日から始まる。

鉄砲隊が有岡城に乱射、弓隊が町屋に火を放った。しかし、村重側の有岡城は総構えの城で守りが堅く、織田軍が2千兵も失ったとされる。そこで、信長は持久戦へと攻城戦を変更し、兵糧攻めに切り替えた。
一方、村重は毛利軍と本願寺の援軍を期待していたが、彼らは現れずに食糧も底をつきつつあった。そこで翌天正7年正月(1579年)に、信長の嫡男・織田信忠隊が守備する加茂砦を襲撃。信忠は馬や兵糧を奪われて加茂砦は炎上となったが、そんな戦況の中で、村重は数人の側近を連れて有岡城から嫡男のいる尼崎城に逃亡することに──。

この逃亡は、命が惜しくなって城や家族を捨てて逃げたという説もあれば、援軍を約束しながらも援兵を送ってこない毛利氏に対し、直接交渉しようとして城を離れた、という説もある。毛利は花隈城や尼崎城を通じて兵糧の補給をしていたものの、村重は援軍が来ないことには城を持ちこたえることができないと判断したということである。

村重が逃亡した事実はしばらく伏せられていたが、やがて信長に知られることとなり、10月15日、有岡城はついに織田軍の総攻撃を受けることとなる。
有岡城は総構えの守りの堅い城ではあったが、内側からの攻撃には弱く、守備兵はことごとく討ち取られることとなり、村重の妻子は囚われの身に・・。信長は、尼崎城と花隈城を明け渡すなら、家臣と妻子の命は助けることを条件として示したが、村重はこの要求を呑むことはなかった。つまり、妻子や家臣を見捨てたのである。

11月19日、こうして城守をしていた荒木久左衛門はついに開城を決意し、有岡城の戦いは終結となった。

戦後

妻子を見捨ててまで出頭しない村重に対して信長は激怒し、荒木一族の人質全員を処刑するように命じた。鉄砲で銃殺したり、農家に押し込めて生きたまま火を放って焼き殺したといわれ、処刑された人数は約670名といわれる。荒木一族と重臣たちは京都市中を引き回された後、六条河原で首を討たれた。中には荒木久左衛門の14歳の息子や懐妊中だった荒木隼人介の妻も含まれていた。

一方の村重は、有岡城脱出後、毛利家に援軍を頼む手紙を送っていることから、戦う意思はあったのではないかと考えられる。また、12月中には尼崎城から花隈城に移り、織田軍に最後の戦いを挑んでいるものの、敗れて毛利氏の元に亡命。

だが、信長が本能寺の変で横死した後に、茶人として再び歴史の表舞台に登場している。村重は茶人として生きる中で、家族や家臣を救えなかった自責の念からか、自分の名前を「荒木道糞(道端のフン)」と名乗っていたといい、のちに豊臣秀吉がその過ちを許して「荒木道薫」に改めさせたともいわれている。

災難だった官兵衛

この戦いには、もう一人有名な武将である黒田官兵衛が関わっている。官兵衛は村重と旧知の間柄であり、村重が反旗を翻した際に説得に出向くのだが、そのまま幽閉されてしまうのである。

信長は、説得に行ったまま帰ってこない官兵衛が裏切ったと思い込み、人質になっていた官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)の殺害を命じた。だが、これは竹中半兵衛の機転によって密かに匿われていたことで事なきを得ている。

有岡城が開城したときに救出された官兵衛。長期の苦しい幽閉生活を強いられたが、父子ともに命を奪われなかったことだけは、せめてもの救いだったのではないだろうか。


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