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「稲葉山城の戦い」信長は如何にして美濃平定を成し遂げたのか?
──永禄10年9月(1567年)

岐阜城(稲葉山城)

信長が美濃国を平定したことで知られる「稲葉山城の戦い」。

この合戦の舞台・稲葉山城(現在の岐阜城)は難攻不落の城であった。現在は山の麓にロープウエーの駅があるように、標高は200メートル以上あって城に向かうのはなかなか大変なようだ。こうした山城を攻め落とすのが、難しいことは容易に想像できるだろう。

合戦マップ

時期永禄10年(1567年)8~9月頃
勢力織田信長 × 斎藤龍興
場所美濃国稲葉山城(現在の岐阜県岐阜市)

合戦の背景

美濃国(現在の岐阜県南部)は斉藤氏が支配していた地であり、稲葉山城は斉藤氏の本拠である。

かつて織田氏と斉藤氏は、信長の父・織田信秀の時代に抗争を繰り返していたが、政略結婚として信長が斉藤道三の娘を娶ったことで一旦は和睦した。だが、やがて斉藤父子が不和となると、弘治2年(1556年)に道三が子の斉藤義龍によって討ち取られてしまう。(長良川の戦い

これにより、政略結婚は意味を成さなくなり、再び織田と斎藤が険悪な関係になることは必然であった。永禄3年(1560年)桶狭間の戦い今川義元が信長に討たれたのは有名だが、それをきっかけに松平元康(のちの徳川家康)が今川家から独立、まもなくして信長と同盟関係となった。

こうして東方の守備が固められ、尾張国の統一もほぼ果たしていたことにより、信長は本格的に美濃攻めを行なうことになる。

信長は美濃攻めでたびたび局地的な交戦を繰り返したが、時には信長が敗戦することもあったように、斉藤氏との戦いは容易ではなかったようだ。なお、斉藤氏は信長の美濃攻めが始まってまもなく義龍が亡くなり、子の斉藤龍興の代となっている。 それでも長い年月をかけて信長による制圧が進み、斉藤氏は没落の道をたどっていく。

稲葉山城乗っ取り、墨俣一夜城の逸話

この頃、斉藤龍興に仕えていた竹中半兵衛羽柴秀吉の軍師として知られる彼は、永禄7年(1564年)頃にクーデターを起こし、少数の兵で稲葉山城を奪取したという。龍興は結果的に半年後に城を明け渡されたものの、以後、斉藤家臣の寝返りが目立つようになる。

また、美濃攻めにおいて墨俣一夜城の話は有名。築城時期は永禄9年(1566年)7月のことという。墨俣は美濃と尾張の国境の要衝であり、信長はここに城を構築して美濃攻略の軍事拠点にしようと考えた。

墨俣一夜城は、信長の命を受けた佐久間信盛柴田勝家らが城の構築に失敗にもかかわらず、木下藤吉郎(羽柴秀吉)がたった一晩で完成させたという逸話である。 だが、実際に一晩で築けるようなものではなく、何日もかかっているとする見方が強い。また、確実な史料に記録された話ではないため、信憑性は低い。


合戦の経過・結果

難攻していた美濃攻めであったが、斉藤氏の重臣である美濃三人衆が織田方に寝返ってきたことで、稲葉山城をあっさりと攻略する日が訪れる。美濃三人衆とは氏家卜全稲葉一鉄安藤守就の3人であり、彼らは西美濃に大きな勢力を持つ美濃の有力な国衆。そんな彼らが永禄10年(1567年)の8月に「信長の味方になるので、その保証として人質を受け取ってほしい」と言ってきたのだ。

これに対して信長の行動はあまりにも素早かった。信長は彼らの人質の受け取りのため、村井貞勝と島田秀満を西美濃へ派遣すると、その後人質の到着前にもかかわらず軍勢を出し、稲葉山の尾根続きの瑞竜寺山へ駆けあがっていった。そして城下町に火を放つと、その日が強風だったのも手伝ってすぐに稲葉山城は丸裸に。
さらに翌2日には、稲葉山城の周囲に鹿垣(=獲物が逃げないための設備)を作らせて敵を完全に包囲、あっという間に攻撃体制を整えた。
そこに駆けつけてきた美濃三人衆は、信長のあまりにも早すぎる対応に肝をつぶしたという。

そして数日後、稲葉山城の将はすべて降参し、当主の斎藤龍興も舟で長良川を下って伊勢長島へ脱出。ここに約7年もの年月を費やした美濃攻略がようやく達成となった。

なお、この稲葉山城が落城した時期は諸説あって定かではなく、江戸時代に成立した系図類の多くは永禄7年とされている。 ただし、『信長公記』は永禄10年8月とし、稲葉山城下近辺に出された信長の発給文書も同年9月のものが多いことから、永禄10年説が通説となっているようだ。

戦後

信長はこの戦いの勝利で美濃平定を成し遂げ、稲葉山城の岐阜城に、井口の町を岐阜と改称。そしてこれを機に「天下布武」の印判の用いるようになった。
これは天下統一を目指すという信長の意志を表したものである。事実、信長は翌年に足利義昭を擁立して上洛を果たし、やがて将軍権力をも抑えて中央政権を牛耳っていくことになる。


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