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「志賀の陣」信長がもっとも苦しんだ戦い?浅井・朝倉と長期の対峙。
──元亀元年9-12月(1570年)

霧に包まれた比叡山
霧に包まれた比叡山
「志賀の陣」は、織田信長軍と浅井・朝倉連合が比叡山を舞台に数カ月にわたって対峙した合戦である。このとき浅井・朝倉連合軍が比叡山に立て籠もったため、比叡山延暦寺は信長に敵とみなされて、翌年に焼き討ちという憂き目にあうのだ。

合戦マップ

時期元亀元年(1570年)9/16~12/17
勢力織田信長徳川家康他… vs 浅井長政朝倉義景他…
場所近江国・志賀一帯(現在の滋賀県大津市の旧志賀町)

合戦の背景

浅井長政はかつて信長と同盟関係にあった。しかし信長上洛後の元亀元年(1570年)の4月、信長は長政との約束を破って越前朝倉攻めを開始(金ヶ崎の戦い)。かねてから朝倉氏と好を通じていた浅井氏は朝倉方に加担することを決断し、長政もやむなく信長から離反することにしたのである。

その後、信長は長政への怒りから同年の6月にさっそく報復にかかる。それがかの有名な姉川の戦いである。 この戦いで織田軍が大勝したことは周知のとおりだが、一方でその間にかつて信長に幾内を追い出された三好三人衆らが挙兵して摂津に砦を構築しはじめたため、8月にはこれを撃退しようとした織田軍と三好軍が衝突。信長もあわてて出陣して大阪の天王寺に着陣・開戦となった。(野田城・福島城の戦い

こうした中、合戦の最中の9月12日の夜半、本願寺勢力が突如として反信長の兵をあげて三好軍に加担。これに乗じてか、一方で浅井・朝倉連合軍が琵琶湖西岸を南下して近江坂本に侵入してきた。おそらく三好三人衆・北近江の浅井長政・越前の朝倉義景・石山本願寺の顕如らは事前に通じていたのだろう。彼らは連携して信長を討とうと動き出したのである。

合戦の経過

近江坂本のやや南にある織田方の重要拠点・宇佐山城では信長家臣・森可成ら1000余りが守備していた。

重臣・森可成が横死

9月16日、森可成は浅井・朝倉連合の進軍の報を聞き、少数の兵を率いて北の坂本口に出陣して浅井・朝倉連合を迎え討った。信長の弟・織田信治や青地茂綱らが救援として駆けつけ、前哨戦では幾人かの首を獲る勝利を収めたのであった。
しかし、同19日には顕如の要請を受けた一揆軍が浅井・朝倉連合に加わり、形成は一気に逆転。総勢3万もの大軍の挟撃を受けた織田軍は多勢に無勢であり、森可成・織田信治・青地茂綱らは奮戦するも、いずれも討ち死にを遂げた。

翌20日、浅井・朝倉連合はその勢いで宇佐山城を攻撃。すでに宇佐山城は主将を失っていたが、与力の武藤五郎右衛門や肥田彦左衛門が防戦に努め、奮闘して猛攻を防いだ結果、劣勢でありながら落城はかろうじて免れた。(坂本・宇佐山の戦い)

宇佐山の戦いで、織田信治を抱えて戦う森可成(落合芳幾作)
、織田信治を抱えて戦う森可成(落合芳幾作)

翌21日に浅井・朝倉連合は宇佐山城の攻略を諦めてそのまま京へ向かって進軍。醍醐、山科まで進んで周辺を放火して、京都まであと一歩に迫っていた。22日、信長の元に、森可成らの討ち死にと、浅井・朝倉連合軍の京都への接近の報告が入った。これに重臣の柴田勝家は信長に京都に戻るように進言すると、信長は摂津からの撤退を決断。23日に全部隊に撤退命令を出して将軍義昭と共にただちに京都に撤退。

こうして摂津国の野田城・福島城周辺での攻防は終了となり、一方、信長の動きを知った浅井・朝倉連合は戦いを避けるために比叡山に上って立て籠もったのであった。

24日、信長は逢坂を越え、近江坂本まで出陣して浅井・朝倉の籠もる比叡山延暦寺を包囲。このとき信長は比叡山延暦寺に対して通告した。

「織田の味方をするならば、織田領の比叡山領を還付するが、それが無理ならせめて中立を保ってほしい。もしこのまま浅井・朝倉方に味方するならば焼き討ちにする──」と。

しかし延暦寺からの返事はなかった。信長はこの瞬間に延暦寺を滅ぼす決心をしたのだろう。実際、翌年に比叡山焼き討ちが行われている。結局信長は翌25日に明智光秀佐久間信盛を主将として比叡山を包囲。この後、長期に渡っての両陣営のにらみ合いとなる。

10月20日には、しびれを切らした信長が義景に使者を送って決戦を促したが、この挑発は黙殺されたという。

各地では反織田勢力が挙兵

このように戦線が膠着する中、以下のように各地で反織田勢力が一気に挙兵した。

  • 幾内では三好三人衆が京を狙って蜂起したが、和田惟政が奮戦して食い止めた。
  • 近江国では六角義賢が一向門徒と共に南近江で挙兵し、美濃と京都の交通を遮断した。これに対し、横山城を守備していた木下秀吉、丹羽長秀らが出陣して11月16日までに六角軍や一揆勢を破って交通を回復させたという。また、徳川家の援軍も六角勢と繰り返し小競り合いを行なっていた。
  • 伊勢国では顕如の檄を受けて長島一向一揆が勃発し、11月21日には尾張国の小木江城が一揆勢に攻められ、信長の弟・織田信興は殺されてしまった。また、桑名城の滝川一益も敗走を余儀なくされている。

こうした状況にも信長は志賀の陣で浅井・朝倉勢と対陣中であったため、救援に赴くことはできなかったのである。

堅田の戦い

11月25日、堅田の地侍である猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に通じてきたので、これを好機とみた信長は家臣の坂井政尚らを派遣して堅田を確保しようとした。ところが朝倉軍はこれを察知し、翌26日には朝倉景鏡ら大軍を堅田に送りこむ。坂井の軍はこれに応戦したが、結局は多勢に無勢で織田軍は壊滅となって坂井政尚らは討ち死にした。

合戦の結果

信長は各地での反織田勢力の動きに対処できなかったが、一方でこの長期戦が終わる兆しがみえはじめていた。11月には反織田方の六角承禎・義治父子や篠原長房と和睦しており、さらに浅井・朝倉勢は兵糧が底をつく恐れ、朝倉に限っては豪雪で越前国へ戻れなくなるというリスクを抱えていたのである。

こうした状況で信長は朝廷と将軍・足利義昭を動かして講和を画策、そして12月13日についに和睦となった。帰陣の保証のために双方の重臣の子が人質として交換されると、翌14日に織田軍が勢田まで退陣、15日には浅井・朝倉軍も比叡山を下って退陣、信長はようやく包囲網の窮地を脱したのであった。





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