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【超入門】5分でわかる織田信長

織田信長の肖像画
天下統一の道筋を作った三英傑の一人であり、始まりでもあった織田信長。戦国時代のスター的存在の一人でありながら、数多くの戦国武将の中でも特にエキセントリックな性格を持つ。本稿ではその「人間五十年」を地図、および年表で簡潔に追う。

信長の生涯のあらすじ

まずは信長の生涯をざっくりと辿ってみよう。

天文3年(1534年)に尾張国(愛知県)で誕生した信長は、父信秀の死後に織田家の家督を継承。そこから10年近くをかけて尾張国を統一。ほぼ同時にかの有名な桶狭間で今川義元を討ち、27歳にしてようやくその名をとどろかせる。
そして、次の侵略地である美濃国の制圧にも7年程度かけ、永禄10年(1567年)の美濃平定と同時に天下布武を掲げた。

以後、信長は京への上洛を果たすとともに15代将軍足利義昭を誕生させ、幾内平定に着手する。しかし、協力関係にあった義昭とは関係が悪化。「信長包囲網」なる、将軍を中心とした反織田勢力との戦いに突入することになる。

長い期間、反織田勢力に苦しめられる信長だが、最大の敵・武田信玄の病死をきっかけに将軍義昭を追放し、室町幕府・浅井・朝倉氏を立て続けに滅ぼす。その後は家臣団を方面軍団化し、本願寺・武田・上杉・毛利氏などの強敵との争いを経て勢力拡大していった。しかし、天正10年(1582年)6月、最期は明智光秀の謀反によって非業の死を遂げる──。

ざっくりと信長49年の事績を説明したが、より理解を深めるためにも、以下のマップで信長関連の要所をおさえてしまおう。

【信長の要所マップ 居城・古戦場など】


信長の誕生・元服・結婚(1534年-)

信長誕生!

尾張国勝幡城主・織田信秀と土田御前との間に次男として誕生。幼名は吉法師。

天文3年5月(1534年)
【信長1歳】
松平当主・松平清康が横死(森山崩れ)

家康の祖父にあたる松平清康が、尾張国への出陣中、突如家臣に討たれて横死。以後、松平家は弱体化が進み、のちに今川家に従属するハメとなる。

天文4年(1535年)
那古野城主に

父・信秀から那古野城を譲られて城主となる。このとき、林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介の4人の家老を付けられる。

天文11年(1542年)
【信長9歳】
元服し、織田三郎信長と名乗る
天文15年(1546年)
【信長13歳】
信長初陣、今川方の大浜城攻略にて。
天文16年(1547年)
【信長14歳】
松平竹千代が織田の人質に

6歳の竹千代(のちの徳川家康)が今川の人質として駿府に護送される途中、松平家臣・戸田康光の裏切りにより、竹千代が織田家に売り飛ばされる事件が起こる。以後、竹千代は2年のときを織田家で過ごすが、信長と出会ったかどうかは定かでない。

天文16年(1547年)
濃姫との政略結婚

当時、織田氏は国外で斎藤氏や今川氏との争う他、尾張国内でも敵対勢力が存在しており、前年には斉藤道三に大敗。そこで信秀は斎藤道三と和睦し、信長に道三の娘・濃姫を娶らせた。

天文17年(1548年)頃
【信長15歳】
青年信長、日々鍛錬に励む

16~18歳頃の信長は、馬術・水泳・弓・鉄砲・兵法の稽古・鷹狩りなど、鍛錬の日々を過ごしたという。また、だらしない身なりと行儀の悪さから「うつけ」と周囲から言われていたという。

天文18-20年(1549-51年)頃
【信長16~18歳】
父・信秀の死と家督相続

父・信秀の死に伴って織田家の家督を継いだ。信秀の葬儀のとき、信長が仏前めがけて抹香を投げつけたというエピソードは有名。

天文21年(1552年)
【信長19歳】

尾張統一戦(1552年-)

信長の家督相続後の初めての戦い。山口教継の謀反によって信長が出陣。勝敗は引き分けに終わる。

天文21年4月(1552年)

清洲織田軍を撃破。

天文21年8月(1552年)
宿老・平手政秀が自害

自害の理由は諸説あり。 "大うつけ" の信長を諌めたという説、信長と政秀間の確執説などがある。
『信長公記』では、信長が政秀長男所有の優れた馬を所望したが、これを断られたために信長と政秀父子に確執が生じたという。そして、政秀は信長の実直でない有様を憂いて「前途に見込みがない」と言い、腹を切ったという。

天文22年閏1月(1553年)
【信長20歳】
正徳寺の会見

信長の「うつけ」の噂を確認すべく、義父・斎藤道三から会見を申し入れられたという。初会見の場で、道三は信長の立派なふるまいに仰天したという有名な逸話がある。

天文22年4月(1553年)
村木砦の戦いで今川軍を撃破
天文23年1月(1554年)
【信長21歳】
安食の戦いで清洲織田軍を撃破
天文23年7月(1554年)
信長、「上総介信長」を称す

この頃、信長は自らを「上総守」や「上総介」と称したが、あくまでも自称であり、朝廷から正式に任官したものではなかったらしい。

天文23年11月(1554年)
甲相駿三国同盟が締結

この年の12月、婚姻により今川・武田・北条による軍事同盟が整う。これにより、今川氏が西方の侵略に専念できるようになり、信長にとってこの同盟は脅威となった。

天文23年12月(1554年)
天文24年(1555年)
【信長22歳】

信長の家督継承に不満をもった弟・信勝(信行)とその支持勢力が信長に刃を向けた戦い。信勝支持派の主力は林秀貞・林通具・柴田勝家らであったが、信長はこの戦いに勝利した。信長は母の嘆願で信勝を許したが、のちに再び謀反を計画したために弟を殺害している。

弘治2年(1556年)
【信長23歳】
岩倉織田氏の攻略

信長は浮野の戦いで岩倉織田氏の織田信賢を破り、居城の岩倉城へ敗走させた。翌年にはその岩倉城も攻略して信賢を降伏させている。

永禄元-2年(1558-59年)
【信長24歳】
初上洛

この頃、尾張国をおおむね統一し、上洛して13代将軍・足利義輝に謁見した。上洛の目的は、将軍のお墨付きをもらって尾張守護職の任命をねらったものらしい。

永禄2年(1559年)
【信長25歳】

今川義元を討ち取る。

永禄3年(1560年)

美濃攻略戦(1561年-)

清洲同盟

今川家から独立を果たした徳川家康と軍事同盟を締結。同年から美濃攻めを本格的に開始。

永禄5年(1562年)

斎藤義龍を撃破して美濃を平定。以後「天下布武」を掲げるようになる。

永禄10年(1567年)

上洛戦と信長包囲網(1568年-)

事実上の織田政権を樹立

足利義昭を擁立して上洛を果たし、第15代将軍義昭を誕生させる。自らは将軍の後見人となり、事実上の織田政権を確立させた。

永禄11年(1568年)

信長が本拠の岐阜に戻ってまもなく、上洛の際に信長に追い払われた三好三人衆らが京の奪還のため、将軍仮御所のある本圀寺を襲撃。信長は直ちに京へ向かうが、到着前に畿内各地からの織田軍の後詰により、本圀寺に立て篭っていた将軍らは難を逃れた。

永禄12年1月(1569年)

南伊勢への侵攻を行ない、大河内城の包囲戦で北畠具教・具房父子を降伏させる。和睦条件として、信長は次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養継子とし、茶筅丸に大河内城を明け渡して、具房、具教は他の城へ退去させた。

永禄12年8-10月(1569年)

前の朝倉を攻めるも、義弟・浅井長政の離反で撤退

元亀元年4月(1570年)

浅井長政への報復戦。浅井・朝倉連合軍を撃破。

元亀元年6月(1570年)
第一次石山合戦

三好三人衆・顕如との戦い。顕如が途中で反織田の兵をあげ、長島一向一揆も蜂起。

元亀元年8-9月(1570年)

比叡山延暦寺に篭った浅井・朝倉軍との対陣。

元亀元年10-12月(1570年)

前年の志賀の陣で浅井・朝倉に味方した比叡山延暦寺を焼き討ち。

元亀2年(1571年)
室町幕府を滅ぼす

信長に敵意をもつ将軍義昭を追放。事実上、室町幕府の滅亡となる。

天正元年7月(1573年)
一乗谷城の戦いで越前の朝倉氏を滅ぼす
天正元年8月(1573年)
小谷城の戦いで北近江の浅井氏を滅ぼす
天正元年9月(1573年)
長島一向一揆を殲滅する
天正2年7月-9月(1574年)

徳川の援軍として参戦し、武田勝頼軍に大勝

天正3年5月(1575年)
天正3年8月(1575年)

方面軍団と勢力拡大(1576年-)

安土城の築城を開始

完成までに3年以上を費やす。

天正4年1月-(1576年)

本願寺との戦いが再燃し、兵力で劣勢ながら本願寺方を討ち破る

天正4年5月(1576年)
柴田勝家・佐久間信盛が方面軍団の指揮官へ

柴田勝家が北陸方面軍団、佐久間信盛が対本願寺攻略として大阪方面軍団の指揮官にそれぞれ任命される。

天正4年(1576年)
第一次木津川口の戦い

毛利氏との水軍対決で敗れる

天正4年7月(1576年)

柴田勝家軍が上杉謙信に敗北

天正5年9月(1577年)
羽柴秀吉が中国方面軍団の指揮官へ
天正5年(1577年)

播磨国・別所長治が謀反したため、三木城攻めへ。陥落させるまで2年近くを要す。

天正6年3月-(1578年)

家臣・荒木村重が謀反、有岡城の陥落は翌年までかかる。

天正6年7月-(1578年)
第二次木津川口の戦い

毛利氏との水軍対決に勝利

天正6年11月(1578年)
石山合戦の終結

正親町天皇の勅命のもとで本願寺と和睦、石山合戦が終結。

天正8年閏3月(1580年)
佐久間父子を追放

19ヶ条にわたる折檻状を突きつけ、佐久間信盛・信栄父子を高野山へ追放。

天正8年8月(1580年)

柴田勝家軍が加賀国を平定

天正8年11月(1580年)
甲州征伐

武田氏を滅ぼす。

天正10年3月(1582年)
本能寺の変

明智光秀の謀反によって非業の死を遂げる。

天正10年6月(1582年)





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