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「織田信雄」野心と処世術を併せ持つ信長次男

織田信雄の肖像画

天正12年(1584年)10月15日。羽柴秀吉が朝廷から従五位下の官位を賜った。このことは、とある人物と官位が並んだことを意味した。その人物とは織田信雄(のぶかつ)。尾張が生んだ英雄、織田信長の子である。

この日は、かつては信長の草履取りだった秀吉に、家格においても織田家を完全に乗っ取られた瞬間であったという。 信長二男として、織田家の栄光と没落を見てきたこの男は、一体どんな生涯を送ったのだろうか?

幼名は茶筅丸

永禄元年(1558年)、信雄はかの桶狭間の戦いの2年前に生まれた。母は信長の側室・生駒吉乃(いこま きつの)であり、信長長男の織田信忠は同母の兄にあたる。

信雄は幼名を "茶筅丸"(ちゃせんまる)といった。茶筅とは、茶道において、お茶を点てる際に使う、あの茶筅である。髷を結ったら茶筅の如き形になったからと、言われている。実に変わった名前である。

信長には子供に変な名前をつけるところがあった。長男信忠には、奇妙な顔をしていたことから「奇妙丸(きみょうまる)」、三男の織田信孝には、3月7日に生まれたことから「三七(さんしち)」と名付けたという。今でいうキラキラネームといったところだろうか。破天荒な信長らしい話である。

伊勢攻略のため、北畠の養子に

永禄12年(1569年)には、信長による伊勢攻略で早くも大きな役割が与えられた。大河内城の戦いで最終的に北畠氏と和睦すると、その条件として北畠当主の北畠具房の養嗣子として送り込まれた。そして具房の妹・雪姫を娶り、大河内城主になったのである。

ちなみに信孝も前年に、同じく伊勢に勢力を張る神戸氏に養子として送られている。これは伊勢湾を貿易の重要拠点と考えていた信長の外交戦略の一環であった。

元亀3年(1572年)には元服して"北畠具豊" と称し、天正2年(1574年)の伊勢長島一向一揆攻めでは北畠軍を率いて参戦している。

天正3年(1575年)には、信長の圧力によって北畠具教・具房父子が隠居したため、大河内城から田丸城に入って北畠氏の家督を相続。 "信意(のぶおき)"に改名して北畠家当主となった。

以後、北畠家の実権を握るため、家臣・津田一安の補佐の元で、家中に対して信意の活発な動きがみられている。また、同年の越前一向一揆討伐にも参戦して塙直政滝川一益・神戸信孝・長野信良と共に転戦している。

北畠家を完全に掌握

一方、当主の座を奪われた具教やその側近らは快く思っておらず、信長との間には軋轢が生まれており、天正4年(1576年)には信長はついに北畠一門を根絶やしにすることを決意し、北畠氏への一斉攻撃を指示した。

具教のいる三瀬館が滝川雄利・柘植保重・加留左京進の軍勢に密かに包囲され、具教や側近らを殺害されると、同日、信雄は田丸城に北畠一門や家臣らを一斉に呼び寄せた上でまとめて殺害したのである。(三瀬の変)

こうして信雄は北畠家中を完全に掌握。このとき具房だけは信雄の養父となっていたことから、北畠一門で唯一助命されたが、その後は滝川一益に預けられて伊勢安濃郡河内に幽閉されている。

各地を転戦。伊賀攻めでは失態も…

その後、天正5年(1577年)の雑賀攻め、天正6年(1578年)の石山本願寺攻め、中国攻め(播磨出陣)、有岡城の戦いなど、織田政権の戦いの多くに従軍している。なお、1歳年上の兄信忠はこのころ既に織田家の家督を譲られ、合戦ではたびたび信長に代わって総大将を務めるなどしており、官位も従三位左近衛権中将となっていた。

こうした兄との差を感じたのか、信雄は欲を出して隣国の伊賀への進出を企む。しかし、伊賀には地侍による自治が進んでおり、織田の勢力下に入ることを拒否した。
そこで信雄は天正7年(1579年)に8千の兵を率いて伊賀に侵攻。いわゆる第一次天正伊賀の変である。

しかし、信雄は敵のゲリラ戦術に対応できずに大敗を喫し、伊勢国へ逃げ帰っている。この戦いは信雄が無断で行ったため、これを知った信長は、信雄を激しく叱責したという。一時は親子の縁を絶とうとしたもといい、以後は自分だけでなく嫡男・信忠にも忠誠を尽くすように命じている。

信長はこの一件で伊賀国の国人らを警戒するようになり、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱につながった。このときは信雄が総大将として大軍を率いて勝利し、伊賀国を平定して前回の汚名を返上している。

大ヒットとなった映画『忍びの国』はこの時代を舞台にしている。「伊賀忍者」の伝説は忍者の代表格として、娯楽を通じて後世まで語り継がれていくことになるが、この一連の戦いがその1つであるのは間違いないだろう。

本能寺の変で、父と兄が死す!

天正10年(1582年)、織田家は大敵の武田氏をも滅ぼし(甲州征伐)、天下統一が目前にまで迫っていたが、重臣・明智光秀の謀反によって本能寺の変が引き起こされ、父信長、および兄信忠が無念の死を遂げた。
このとき、信雄は仇討ちのために近江国甲賀郡土山までは進軍したものの、それ以上は進められずに光秀討伐には参加できなかったらしい。

光秀討伐戦となった山崎の戦いの直後に、安土城が放火されているが、フロイスや『日本西教史』によると、これは信雄のしわざとしており、暗愚(=おろか者)だと評している。一方で『惟任謀反記』等では明智秀満が放火したとあるので、その真偽は定かではない。

信長死後、織田家の覇権を狙う

その直後の清洲会議では、織田家の後継者の座を狙うも、信雄は織田家の当主候補にならなかった。結局、後継者は信忠の子・三法師に決まり、信孝がその後見人となった。

『金井文書』や『多聞院日記』には、信雄と信孝が家督争いしたとあり、両者は会議の前後にもめていたとみられる。そして会議の結果、信忠の遺領である尾張・美濃の全域は、信雄(=尾張)と信孝(=美濃)に分け与えられた。信雄はこの時点で尾張・伊賀・南伊勢の約100万石もの所領を有することに…。

信長死後の新体制をまとめると、トップにわずか3歳の三法師。その後見人に2人の叔父である信雄と信孝。博役に堀秀政、そして実際の政務に携わるのが、羽柴・柴田・丹羽・池田の四宿老という形である。
会議の決定事項から、信雄と信孝の2人が「織田一族のキーマン」であることは想像に難くないだろう。

織田家中の覇権争い

会議の後まもなく、織田家中では羽柴秀吉と柴田勝家が織田家中を巡る覇権争いで対立。天正11年(1583年)には織田家を二分する争い・賤ヶ岳の戦いに発展する。

この時、信雄は秀吉に、信孝は勝家についた。結果は秀吉方の勝利となり、勝家は妻のお市(信長の妹)ととともに自害した。

そして、信孝のいる岐阜城には、なんと信雄自身が包囲。

「むかしより 主をうつみの 野間なれば むくいを待てや 羽柴ちくぜん」

信孝が上記の辞世の句を詠んだのはその時である。秀吉への憎しみだけで、信雄の名はないが、 徐々に秀吉に乗っ取られている織田家の現状に対し、何もしない兄信雄への苛立ちがあったのかもしれない。

信孝の死によって、信雄は北伊勢・伊賀を加増され、三法師の後見人となった。まだ三法師は幼少。つまり織田の政治を動かすのは信雄…かに見えた。

秀吉と対立

しかし、今度は信雄と秀吉の関係も悪化する。やはり信雄にも、信長死後の秀吉の増長には納得できない部分があったのだろう。また秀吉も、信雄の後見人としての権限を剥奪しようとしていた。

ここで信雄が頼ったのが、織田の同盟国・徳川家康である。織田家としての正統性と、家康の武力で秀吉を征伐しようと考えたのだ。

この時、信雄の秀吉征伐への意気込みがどれほどのものであったのか。信雄の家老、津川義冬・岡田重孝・浅井信時の3人は信雄の決断を必死で諌めた。特に津川は信雄が北畠の養子として伊勢に出向いたときからつかえていた人物である。しかし信雄は諌めを一切聞き入れなかった。それどころか「粛清」という形で応えた。長年の部下を粛清するほどに秀吉への憎さが激しかったのだ。

「信雄が家康と組む…」

この知らせは秀吉を動揺させた。なぜなら、このとき家康は信長死後の混乱に乗じて、甲斐(=山梨県)・信濃(=長野県)にまで勢力を拡大していた。つまり、信雄と家康がそれぞれ信濃と尾張という2つのルートから秀吉の拠点・大坂までの攻めよせることが可能であったのだ。

両方面から軍勢が押し寄せたら、秀吉軍はひとたまりもなかった。しかし、ここで終わらないのが秀吉。すぐに信雄側の尾張の調略にかかった。尾張犬山城の池田恒興を寝返らせた。

恒興は信長の乳兄弟で、清洲会議にも参加した重臣であり、織田家内部争いの正統性を占う重要な人物であった。恒興のこの判断は、余裕の家康を崩した。つまり尾張が秀吉の手に渡ると、その隣国は三河、すなわち家康の本拠になる。なんとしても尾張が秀吉の手中とするわけにはいかず、家康は尾張に兵を出す他無かった。こうして2つの攻略ルートは1つだけとなった。

こうして天正12年(1584年)、秀吉も大軍を率いて尾張に出陣し、小牧・長久手の戦いが幕を開けた。

この時、信雄は清洲城にて家康と共に陣を構えていた。野戦においては、数で勝る秀吉に対し、兵の精強さで勝る家康が奮戦。先述の池田恒興をはじめ、秀吉軍の多くの将を討ち取るなど大活躍を見せた。

しかし、やはり物量で勝る秀吉、確実な勝利を得るために、短期戦を止め、家康との睨み合いの姿勢をとった。そう、秀吉は狙いを家康ではなく信雄に絞ったのだ。つまり、尾張にて家康との長期戦をしている間に、信雄の領地である伊勢に攻撃を集中したのだ。信雄は尾張での野戦後は伊勢にいたため、この事態に怯えることとなった。

このタイミングで、信雄は秀吉から和睦の要請を受けた。天才秀吉の絶妙の交渉術である。信雄はこれを快諾。それも同盟関係の家康に何も言わずにである。単独で和睦を終えた信雄は、伊勢と南伊賀を失う処分を受けることととなった。同年11月11日のことである。

文の冒頭でも触れたように、この年に官位で秀吉と並ばれた信雄は軍事でも秀吉に大きく開けられてしまった。

またしても信雄は「無断で」行動をとってしまった。このことは家康から大義名分を失わせることとなり、家康は三河へ撤退した。さらに、信雄・家康に加担していた越中(=富山県)の佐々成政は、この信雄の動きに憤慨、日本アルプスを超えて家康に再起を促した。いわゆる「さらさら越え」である。

こうして、天下の趨勢は秀吉に傾いた。

豊臣政権下での信雄

以後の信雄は秀吉に臣従するが、秀吉は信雄の織田家督を承認するなど、旧主家として特別扱いしてくれた。

信雄もこれに応えるかのように、翌天正13年(1585年)の佐々成政討伐(富山の役)では従軍して仲介役を果たしている。

天正14-15年(1586-87年)に行なわれた島津攻め(九州征伐)には参加していないが、出陣する秀吉を勅使らとともに見送り、戦後は正二位内大臣に叙任し、豊臣政権下で秀吉に次ぐ地位となった。

天正18年(1590年)の小田原征伐でも、北条氏の降伏を促す役割を担ったが、戦後、家康が江戸に転封を命じられると、信雄には旧家康領の東海5か国に転封の命が下された。

ここで信雄は故郷の尾張国から出るのを嫌がって秀吉に訴えたために、秀吉が激怒。結局、改易されて追放となり、捨扶持2万石だけ与えられたという。没落した信雄は、まもなく剃髪して「常真」と号した。

しかし秀吉に滅ぼされることもなく、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵(文禄の役)のころに家康の仲介で許され、秀吉の御伽衆として傍らに召しかかえられて大和国に少しの所領を得たという。
なお、文禄3年(1594年)には、子の秀雄も越前大野1万5千石を領している。

徳川の世でも処世術を発揮

秀吉の死後、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、大坂で傍観するという曖昧な態度をとったが、子の秀雄が西軍に付いたため、戦後は再び所領を失うことになる。

しかし、いつしか大坂天満に居宅を構えて過ごし、いろんな大名らとの連絡を保っていたらしい。

やがて豊臣と徳川の決戦の機運が高まると、大阪城内では徳川との開戦も議論されるようになる。議論の中には信雄を大阪城に迎えて総大将にとの意見もあったという。

だが、信雄はこれに驚いて雲隠れしたようだ。理由は定かでないが、一説には、家康から信雄に働きかけて大阪から退去させたとも伝わっている。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣が滅ぶと、信雄は家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられた。信雄は合戦に参加したワケではないが、どうやら豊臣に加担しなかったことが評価されたということらしい。

天下の英雄の子として生まれ、時代に抗いながらも豊臣・徳川の世に従わざるを得なかった信雄。大阪の陣の後は、京都に隠居して茶や鷹狩りなどのんびりと過ごしたというのだから、大した処世術である。

寛永7年(1630年)に没。偉大な父を持つ苦労を一身に背負った生涯であった。享年73。





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