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「織田信広」信長の異母兄。一度は信長を裏切るも赦免され、以後は活躍。

織田信広は信長の異母兄として知られる。一度は信長を裏切るも許され、以後は信長の信頼を得る活躍をするが…

三河安祥城の城将

信広は織田信秀の長男として尾張国で誕生。織田信長の庶兄にあたる。生母が側室であったことから家督相続権はなかった。 詳しい生年は不明であるが、信長が誕生したのが天文3年(1534年)なのでそれより前ということになる。

信広は天文17年(1548年)3月の第二次小豆坂の戦いで、先鋒を務めている。ただ、小豆坂に差し掛かったときに今川勢の松平軍と鉢合わせし、劣勢を余儀なくされた。信秀率いる本隊と合流して辛うじて松田らの軍を退けるが、今川伏兵の岡部長教軍の反撃を受けて大敗する。これによって織田軍は安祥城へと敗走し、信広が守備を担当することになる。

このとき弟の信長は10代前半だったが、兄は既に軍事的に重要な立場となっていたのである。

天文18年(1549年)3月に今川義元配下の太原雪斎軍が侵攻してくるが、先鋒の本多忠高を討ち取って今川軍を撃退する。しかし、同11月に再び雪斎の侵攻にあい、平手政秀の援軍むなしく安祥城は陥落する。その結果、三河での織田家の求心力は薄れることになる。このとき、信広は今川軍に生け捕りにされる失態を犯すが、織田家の人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)との交換により、織田家に返されている。

信長に背く!

やがて父信秀が没して「うつけ」呼ばわりされていた青年の信長が当主となるが、信広は弘治2年(1556年)に美濃の斎藤義龍と組んで謀反を画策し、腹違いの弟である信長を討とうとする。この頃の信長は、清洲から出陣して美濃からの兵を自ら撃退していた。信広は後詰めとして清洲城に入っていたが、それを利用して信義龍とで信長を挟み撃ちにする計画であった。しかし、この計画は事前に信長の知る所となって信広は戦いに敗れた。

この一件で信長は信広の罪を問うことなく放免している。信長は幼少より戦場で活躍する兄の信広を尊敬していたのだろう。 これ以降、信広は二心を抱く事もなくなり、連枝衆として織田家中で別格の存在となっていく。

織田家中で重きを成すも最期は…

信広は信秀直系での最年長者なので、織田家中ではまとめ役的立場であったらしい。信長が上洛を果たした際には、信長の庶兄という立場によって室町幕府等との折衝役を任されている。その後は元亀元年(1570年)比叡山焼き討ち元亀3年(1572年)岩村城救援などに従軍。また天正元年(1573年)5月には信長の名代として足利義明と和議を結んでいることから、信長の厚い信頼を得ていることがわかる。

天正2年(1574年)には伊勢長島一向一揆の殲滅戦に従軍。戦いは2ヶ月余り続いた後に一揆勢力が降伏・開城、そして一揆兵が船で退去しようとするが、ここで信長は皆殺しを謀り、壮絶な展開となった。このとき一揆兵は次々と殺害されていったが、彼らはあきらめずに捨て身の反撃で織田軍に突進してきたのである。
このときが信広の最期となり、大木兼能と一騎打ちして討死となった。

信広の子孫は?

信広には跡取りとなる男子がなく、一人娘の桂峯院は信長の養女となって丹羽長秀に嫁がれている。 彼女は長秀との間に嫡男・鍋丸(のちの丹羽長重)を産んでいる。他にも稲葉典通の正室となった娘も産んだと言われているがこれは定かでない。

丹羽長重はのちの関ヶ原合戦で西軍に加担したことで戦後は一旦改易された。しかし、のちにかねてから懇意にしていた徳川秀忠の斡旋からの書状が届く。そこには家康が長重を高く評価していると記されてあり、復権の機会を設けるとあった。喜んだ長重は3人のお供を連れて江戸に上った。この一件の背景には秀忠の計らいがあり、途中の宿でも長重一行は盛大な接待を受けることになる。

そして慶長8年(1603年)に常陸国に1万石を与えられて大名へと復帰。その後、慶長19-20年(1614-15年)の大阪の陣での活躍を経て、ついには白河藩の初代城主にまで登りつめるわけである。祖父である信広の忠義心が、孫の長重の中で生き続けることで花開いたのである。


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