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「丹羽長秀」本能寺では主役のチャンスを逃すも、信長死後は百万石超え!?

丹羽長秀の肖像画
織田信長に小姓として仕え、美濃攻略戦を機に秀吉とともに出世し、のちに織田四天王の1人として称えられたという丹羽長秀。

美濃攻略で秀吉とともに出世

長秀は天文4年(1535)に丹羽長政の子として誕生。彼の幼年期の史料はほとんどなく、そもそも長秀以前の丹羽氏の系譜や事績もはっきりしない。

『寛政重修諸家譜』によると、丹羽氏は武蔵国児玉党の末裔とされており、いつしか尾張国に移って本姓を藤原氏に復したという。 そして、代々尾張国の守護・斯波氏に仕え、父・長政のときに尾張国丹羽郡児玉村(愛知県名古屋市西区)に土着して丹羽氏を称したらしい。織田氏が織田信秀の代になって急速に勢力を拡大したことで、丹羽氏は織田氏の傘下に入ったという。

長秀は15歳のとき、すなわち天文18年(1549)に信長に小姓として仕えたというが、信長が家督を継いでから尾張国を統一する過程で長秀の名は全く見当たらない。永禄3年(1560)桶狭間の戦いでも、同年代の前田利家佐々成政らが従軍しているにもかかわらず、長秀の名はないのである。

桶狭間以後、信長は美濃国の攻略にとりかかるが、その頃からようやく歴史の舞台に登場する。永禄6年(1563)には、信長の養女となった織田信広の娘を娶り、信長と姻戚関係となった(『丹羽家譜』)。

確実な史料での初見は、永禄7年(1564)からである。この頃、信長は美濃攻略戦を展開していたが、長秀や木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉)などは、その過程で大きく出世していくことになる。

同年、長秀は斉藤氏に通じた織田信清の犬山城陥落に功をあげている。はじめに信清の家老が籠もる小口城・黒田城を、説得によって開城させると、続いて犬山城を包囲し、見事に陥落させた。さらには加冶田城の佐藤忠能父子へ調略を仕掛けており、味方に転じさせてもいる。

永禄8年(1565)も続けて功をたてた。長秀は川尻鎮吉(=河尻秀隆)らと猿啄城を攻略し、さらに加治田城奪還のために斉藤方が築いた堂洞砦にも果敢に攻め込み、これを陥落させたという。
なお、秀吉も美濃攻略において、鵜沼城の城主・大沢次郎左衛門を誘って降参させたとか、墨俣城を築城したという話など、多くの手柄話があるが、確かな史料には一切記録がないらしい。ただ、美濃攻略が終わり、信長が上洛したときに出世しているのは事実である。

織田政権樹立後の活躍

さて、美濃を平定して”天下布武”を掲げた信長は、足利義昭の将軍擁立に協力するため、永禄11年(1568)に義昭を奉じて上洛の大行軍を開始した。このとき長秀は、秀吉らとともに抵抗する六角承禎の支城・箕作城をわずか1日で攻略し、観音寺城を無血開城させている(観音寺城の戦い)。

京・幾内で政務をとる

上洛を果たした信長は、その後、幾内の政務や治安維持を図るために、数人の重臣を京都に残している。 そのメンバーには、長秀や秀吉のほか、柴田勝家佐久間信盛森可成村井貞勝など、蒼々たる顔ぶれであり、長秀や秀吉がいかに出世したかがよくわかる。
このときの長秀は、村井貞勝とともに近江国安吉郷の村々から誓約状をとっていることから、京都周辺の政治に関与していたとみられる。この誓約状で検地が行なわれたことが示されており、信長による検地の初見となっている。

永禄12年(1569)正月早々、信長は将軍の仮御所が三好三人衆に襲撃されたことを受け、2月から堅固な将軍御所の建設に取り掛かった。このときの京都・畿内の行政は、佐久間信盛・柴田勝家・森可成・坂井政尚・蜂屋頼隆の5人が携わっていたが、4月からは長秀・木下秀吉・明智光秀・中川重政の4人と入れ替えになり、彼らは所領安堵や年貢・雑税の催促などの政務を行なったようだ。その一方で5月、長秀は信長の命を受け、松井友閑とともに「名物狩り」の奉行として京都・堺で天下の名器を集めている形跡もある。
こうした中、8月には大詰めを迎えていた伊勢攻略に従軍し、大河内城の包囲に加わっている。

佐和山城を攻略し、近江支配のキーマンの一人に。

元亀元年(1570)、信長が朝倉攻めを実行したため、信長の妹婿・浅井長政が朝倉方に転じると、6月にはその報復として姉川の戦いが勃発、長秀はこれに従軍している。戦後、浅井方から奪った横山城に秀吉が入城したのに対し、長秀は、まもなく包囲した浅井の支城・佐和山城の側に築かれた砦に配備されることになった。

同年9月、織田軍が大阪で三好三人衆・本願寺顕如との戦いが勃発した際、近江でも本願寺の門徒が一揆を起こしたが、このとき長秀と秀吉が村々を駆けまわって一揆勢をあらかた鎮圧したという。その後、浅井・朝倉連合軍が本願寺の動きに呼応して大阪に迫ってきたが、信長は迎撃しようとすると、浅井・朝倉連合は比叡山に籠城したため、両軍は年末までの長期対陣となる。(志賀の陣
なお、長秀と秀吉の2人が支援に駆け付けた際には、信長が大変喜んだという。

元亀2年(1571)2月には、ついに磯野員昌が降伏して佐和山城を攻略、長秀が城代として入った。こうして近江国の支配体制は以下のように整った。

  • 永原城:佐久間信盛
  • 長光寺城:柴田勝家
  • 安土城:中川重政・津田隼人正
  • 宇佐山城:明智光秀
  • 横山城:木下秀吉
  • 佐和山城:丹羽長秀

なお、同年9月1日には、信長の命で長秀・佐久間信盛・中川重政・柴田勝家の4人が志村城(新村城)を攻め、これを陥落させている。また、信長による比叡山焼き討ち後の間もない9月21日、長秀は河尻秀隆とともに、前年に本願寺に内通した高宮右京亮とその一族を佐和山に呼び出して殺害している。

この頃より信長と不仲になりつつあった将軍義昭が、水面下で信長包囲網の構築に動きはじめたといわれている。

天正元年(1573)には、義昭が反信長の旗を揚げて、石山に砦を築きはじめた。このとき長秀や柴田・明智らが信長の命を受けて鎮圧し、義昭との講和に貢献している。その後、7月に義昭が再び挙兵したため、長秀ら信長軍はこれを難なく降伏させて将軍を京都から追放したのであった。
続いて信長軍は、8月から9月にかけて朝倉・浅井の両氏を一気に滅ぼしたが、長秀は朝倉を滅ぼした戦いで先陣を務め、戦後は信長の命令で朝倉義景の母と嫡男を探し出して殺害したという。

このように信長包囲網が瓦解した後、信長は秀吉に旧浅井領の江北三郡の支配を任せ、長秀には若狭一国を与えた。 信長は旧朝倉領の越前国の支配体制を朝倉旧臣にしたため、秀吉と長秀に越前国を監視する役割をも与えたらしい。

方面軍団には入らず?

その後も天正2年(1574)長島一向一揆征伐、そして翌天正3年(1575)には、高屋城の戦い・長篠の戦い越前一向一揆征伐というように、長秀は休む間もなく合戦に駆り出されていった。

こうした功によって同年には朝廷から惟住(これずみ)の姓を賜っている。"惟住" とは九州の名族である。これは信長が朝廷へ要請したものであり、将来の九州平定を想定しての行動との見方がある。

その後、長秀は天正2年から3年(1574-75)にかけ、長島一向一揆征伐・高屋城の戦い・長篠の戦い・越前一向一揆征伐、というように休む間もなく合戦に駆り出されていった。
この間の天正3年(1575)4月に信長が発令した徳政令において、長秀と村井貞勝の2人を事務担当に命じられている。また、同7月には東宮の蹴鞠の会において、朝廷から惟住(=これずみ。九州の名族の姓)を賜っている。これは信長が朝廷へ要請したものであり、将来の九州平定を想定しての行動との見方があるようだ。

天正4年(1576)に入り、長秀は信長から安土城の築城、つまり総普請奉行を任せられた。そして1カ月ほどで信長が安土城に移ると、褒美として名物の珠光茶碗を与えられたという。
なお、同年5月には、本願寺攻めとなった天王寺の戦いに従軍している。

さて、この頃より、信長の所領拡大に伴って各方面に兵を分散して戦う必要性がでてきたようであり、この年以降に方面軍団が誕生する。同年には柴田勝家が北陸方面、佐久間信盛が大阪方面、翌年以降には、羽柴秀吉が中国方面、明智光秀が近畿方面を任されるようになる。彼らはかつて近江を守備した宿将であり、大軍団を統率する指揮官へと転身・出世していったのである。

そうした中で長秀はどうだろうか?以後の長秀の出陣ををみると、天正5年(1577)2月からの雑賀攻め、9月の手取川の戦い、10月の信貴山城の戦い天正6年(1578)4月の丹波出陣、6月からの播磨攻めなど、各地を転戦。同年に別所氏や荒木村重の謀反によって引き起こされた三木合戦有岡城の戦いにも参陣している。
長秀は特に敵を定めることなく、各地を動きまわって方面軍団や信長本隊を支援する役割だったようだ。方面軍団に比べるとパッとしないかもしれない。

とはいえ、『信長公記』をみると、天正9年(1581)に行なわれた "京都馬揃え" において、長秀の名がその一番に "惟住五郎左衛門尉長秀" とあるように、織田家臣団の序列において相当上位にいたことがうかがえるだろう。 ちなみに "京都馬揃え" とは、信長がその強大な力を誇示するために行なわれた織田軍団を総動員した大規模な軍事パレードである。

信長死後、百万石を超える大大名へ

天正10年(1582)、長秀は武田征伐に従軍、武田滅亡後には信長の命をうけて盟友・徳川家康を大阪で接待している。その後まもなく、本能寺の変が勃発することになるが、この一大事件の時、彼は長宗我部元親を討つべく、信長三男の織田信孝とともに大坂で四国出陣の準備中であった。

信長重臣クラスの中で、本能寺に最も近い位置にいたのは長秀であった。 信長の仇討ちをして織田家中での名声を高めるには絶好の機会であったが、結局は身動きができずに、中国方面から引き返す秀吉軍との合流を待つしかなかったようだ。
というのも、信長の死を知ったとき、長秀と信孝の軍勢は動揺して逃亡兵が相次いでおり、兵力が大きく失われていたからという。ちなみに長秀と信孝は、秀吉軍との合流の前に明智光秀の娘婿・津田信澄を共謀者とみなして殺害している。その後、秀吉軍と合流し、山崎の戦いで明智光秀を討ったことは周知のとおりであろう。

その直後、織田家の後継者決めと織田領の再分配のため、織田重臣らが集まって会議が開かれた(清洲会議)。
このとき、柴田勝家が後継者に織田信孝を推薦したが、これに対して秀吉は織田信忠の遺児・三法師を提案すると、長秀は秀吉を支持し、近江国の滋賀郡と高島郡を得ている。

これがきっかけで翌天正11年(1583)に勝家と秀吉による織田家の覇権争いから合戦に発展し、勝家・信孝は秀吉方に敗れて滅んだ。戦後、長秀は秀吉から勝家の所領であった越前国(一部の地域を除く)と、加賀国二郡を与えられ、秀吉に協力した恩恵を受けて123万石を有する大大名にまでなったのである。

天正12年(1584)には、信長二男・織田信雄が、織田家の実権を握った秀吉と不和になって、家康に支援を得て小牧・長久手の戦いが勃発。このとき、長秀は病気だったことから、秀吉のために出陣することはできなかった。そして、豊臣政権の誕生まで生き長らえることは叶わず、天正13年(1585)に病没した。





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