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「滝川一益」伊勢攻略の立役者が歩んだ事跡とは?

滝川一益の肖像画
早くから北伊勢に派遣され、伊勢攻略の主軸として活躍し、のちに関東方面軍団のトップという重責を任された滝川一益。信長の死後は散々な目に!?

信長に仕える

一益の出自は定かではないが、多くの史料に記されている点から近江国甲賀郡が有力のようだ。甲賀という土地柄から一益を忍者出身と伝える史料もあるが、まったくもって確証はない。この他に伊勢国や志摩国出身という見方もある。一益が信長の元で長年にわたって伊勢攻略を担当し、恩賞として北伊勢の所領を得たことや、志摩の国衆・九鬼嘉隆が信長に仕える際に仲介したこと等がその根拠としている。

『寛永諸家系図伝』によれば、一益は幼年より鉄砲の腕前に長けていたという。そして同族を殺したために故郷を追い出され、諸国を放浪したのちに信長に仕えたという。
仕官の時期は定かでないが、『信長公記』では、時期不明の盆踊り開催の様子を記したものに "一益" の名がはじめて見える。登場する家来衆が信長初期の家臣であることや、信長の居城が清須城であることが伺えるので、時期は信長が清須城を本拠とした後の弘治元-4年(1555-58年)頃であろう。

伊勢攻略

その後、信長は永禄2年(1560年)の桶狭間合戦の勝利によって脚光をあび、まもなく尾張統一も成し遂げる。

続いて信長の美濃攻略戦がはじまるが、一益がこれに参加した形跡はみられない。やがて並行して伊勢国への侵攻が行なわれることになるが、一益が信長に伊勢攻めを進言したともいわれている。なお、伊勢侵攻の目的は、本願寺勢力への抑制と近江六角氏への牽制、そしてと伊勢湾貿易を確保することにあったようだ。

そして迎えた永禄10年(1567年)春、ようやく北伊勢攻略が開始されることになったが、その先鋒として派遣されたのが一益である。このとき一益は員弁郡・桑名郡の地侍たちをことごとく降参させていった。
当時の北伊勢は、神戸氏や長野工藤氏、関氏などの有力国衆とその他多くの地侍による割拠状態にあったが、この年は地侍を服属させるにすぎなかった。本格的に北伊勢攻略が進んでいくのは翌年以降である。

永禄11年(1568年)、信長は合戦を経て、三男・三七郎(のちの織田信孝)を神戸氏の養子に、弟の信良(のちの織田信包)を長野工藤氏の当主にする等の政略によって北伊勢を掌中に収めた。
こうした政略が成功した背景には、一益が北伊勢に留まって事前に内部工作をすすめていたからである。実際、同年は信長の上洛戦が行なわれ、ほとんどの家臣がこれに従軍しているが、一益だけは北伊勢に抑えとして留まっている。

信長上洛の翌永禄12年(1569年)、信長は北伊勢に続いて南伊勢の制圧も伺っていたところ、信長の権威におびえた木造城主・木造具政が誼を通じてきた。彼は北畠氏の実権を握る北畠具教の弟である。
これをきっかけに一益ら織田軍は大軍で大河内城攻めを行ない、最終的に和睦。信長は前年と同様に、次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を北畠当主・具房の養継子に送り込み、大河内城は茶筅丸に明け渡すという和睦条件を成立させ、ここに伊勢平定を成し遂げた。(大河内城の戦い

その後、一益は伊勢国に留まり、安濃津城など3つの城の守備を任せられた。だが、信長と将軍義昭が不和となったことで情勢が激変し、浅井・朝倉・本願寺・武田など、将軍の結集した反織田勢力との戦いを強いられることになる。一益は伊勢国を拠点とし、たびたび長島一向一揆と対峙しつつ、各地を転戦。天正2年(1574年)の長島一向一揆殲滅戦では、九鬼嘉隆らと共に水軍を率いており、戦後には恩賞として長島城など北伊勢の大半を与えられている。
このように長島一向一揆の影響などで、結果的に伊勢が完全に織田領となるまでに10年近くの歳月を費やすこととなったのである。

遊撃軍、そして関東管領軍の司令官へ

以後、天正3年(1575年)長篠の戦い越前一向一揆の殲滅戦に従軍。天正4年(1576年)以降は織田の所領拡大に伴い、一部の重臣クラスは次々と方面軍団の指揮官として担当エリアの侵攻を任せられるようになるが、一益はしばらくは各地を転戦する遊撃軍として行動したようだ。
一益が参戦した合戦としては、同年の天王寺の戦い天正5年(1577年)の紀州征伐、天正6年(1578年)の第二次木津川口の戦い、有岡城の戦い天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱などがある。

武田征伐

天正10年3月(1582年)には、信長が武田討伐を決定。信長嫡男・織田信忠が総大将として信濃国へ侵攻を開始し、一益も軍監としてこれに従軍し、天目山で武田勝頼を討ち取るという織田家中随一の手柄をあげている。(甲州征伐)
戦後には上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与えられ、関東方面軍の司令官という重責を担っているように、この頃の一益は織田家中における序列も相当高かったことがうかがえる。司令官とはいっても、関東は北条氏はすでに信長に従属する意思を示しており、合戦の任務はなかったとされている。では、どのような役目だったかというと、外交によって北条をはじめとした関東の諸大名を正式に服属下させること、さらには伊達氏や蘆名氏などの東北諸大名も従属下に置くことである。
なお、一部の史料において一益の与えられた役職名が「関東管領」と記載されている。関東管領は元々室町幕府の地方機関、鎌倉府のトップ・鎌倉公方の元で関東を管轄する役職を指すが、一益の役職がこれを意味しているのかどうかはわからない。

失脚への道

だが、同年6月には明智光秀の謀反(本能寺の変)にあって信長が非業の死を遂げると、一益は過酷な状況に追いやられることになる。信長の死が広く伝わると、甲斐国の支配を任されていた河尻秀隆が一揆に遭って討死するなど、織田の所領となって日の浅い武田旧領で混乱が起き、甲斐・信濃・上野の三国は周辺大名や国衆らの争奪戦となるのだ。(天正壬午の乱

北条氏は手の平を返すように上野国へ侵攻。これを迎え討った一益は神流川の戦いにて敗れ、命からがら自領の伊勢国へと逃亡することに。しかも、その間に行なわれた織田家の重臣会議にも間に合わないという失態であった。

以後、羽柴秀吉と柴田勝家による織田家の覇権争いがはじまるが、ここでも一益はつくづく運もなかったようだ。
天正12年(1583年)賤ヶ岳の戦いでは、一益が加担した勝家が敗戦して自害。その後も一益は伊勢方面で孤軍奮闘していたが、結局は秀吉に降伏し、伊勢の所領はすべて没収、丹羽長秀を頼って越前で蟄居の身へ。 これで余生を静かに暮らすのかと思いきや、翌年には秀吉と織田信雄・徳川家康連合による小牧・長久手の戦いが開始され、秀吉に呼び戻されて従軍させられるハメとなった。天正14年(1586年)に死没。





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