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「明智光秀」日本史最大の謎・本能寺の主人公は三日天下と揶揄された!?

明智光秀の肖像画
"本能寺の変"で信長を討った首謀者で有名な明智光秀。元々は足利義輝の奉公衆・細川藤孝に仕えていたといわれ、「三日天下」という不名誉な異名をもつ。

謎の多い前半生

光秀は現在の岐阜県可児市出身で、美濃守護である土岐氏の流れを組む明智光綱の子といわれている。生誕年は以下のように諸説あってハッキリしていない。

  • 永正13年(1516年)説:『当代記』
  • 大永6年(1526年)説:『細川家記』
  • 享禄元年(1528年)説:『細川家文書』
  • 天文9年(1540年)説

美濃斉藤家、越前朝倉家に仕える?

青年期までの歩みは不明な点が多いものの、土岐氏に代わって美濃国を治めた斎藤道三に仕えていたという。その斉藤氏では、弘治2年(1556年)に道三とその息子・義龍の間で争いが勃発。(長良川の戦い
このとき光秀は道三方に味方したが、道三の敗北に伴って本拠・明智城を攻め込まれ、明智一族の多くが討ち死・離散となった。なお、一説に明智家は斉藤道三が美濃守護の土岐頼芸を追放した際に滅んだともいわれている。

その後、光秀は明智家を再興させるために諸国を渡り歩くことになったようだ。各地の禅寺を転々とする極貧生活を送り、妻の煕子(ひろこ)は自分の黒髪を売って生活を支えていたという話もある。

諸国を転々とする中、永禄6年(1563年)頃より、越前の朝倉義景に鉄砲射撃の腕を認められて召し抱えられることになったという。光秀は100名の鉄砲隊を部下として持つことになるが、演習時には通常の倍の距離の的に対して100発全弾を命中させた。しかもそのうちの68発は中心を射抜くという手腕を発揮したという話もあるから驚きである。ただ、近年では光秀が朝倉家に仕えていたとする説に疑問が投げかけられているようだ。

永禄8年(1565年)、室町幕府13代将軍の足利義輝が三好三人衆や松永久秀に暗殺されるという事件が起こる。(永禄の変
このとき、義輝の弟で仏門に入っていた覚慶(のちの足利義昭)は一旦は幽閉されるが、将軍の側近衆に助けられて京を脱出。翌永禄9年(1566年)には近江国に移って矢島を在所とし、還俗して”義秋”と名乗った。ここに彼は正統な血筋による将軍家の再興を目指すのである。

義秋は当初、河内国の畠山高政をはじめ、越後の上杉謙信や近江の六角義賢などと連絡をとるなど、上洛の機会をうかがっていたようだ。だが、なかなか上洛が実現せず、やがて朝倉義景を頼ることになる。これが光秀と将軍義昭が接触するきっかけとなった。

義秋は朝倉が上洛に向けて一向に動こうとしなかったため、今度は桶狭間で今川家に勝利し勢いのあった織田信長を頼ることに。 光秀は義昭を奉じて上洛するように信長に要請し、足利と織田をつなぐ使者として働いた。信長の行動は早く、永禄11年(1568年)には義秋を擁立して上洛し、14代将軍足利義栄を京から追い出したうえで15代将軍義昭を誕生させたのである。

織田家直臣としての活躍

以後の光秀は、室町幕府の幕臣でありながら、仲介者として信長にも仕える形となる。

光秀は和歌や茶の湯を好んだ教養人であり、織田家中ではめずらしい存在でもあった。朝廷との交渉役として信長を支え、公家との連歌会にも積極的に参加をして親交を深めた。なお、信長に仕えてまもない上洛直後より、光秀は将軍義昭の仮御所とした本國寺の警護を任されている。古参武将と並んで京都奉行としての政務を担ったことは、信長からの信頼が相当厚かったことがうかがえる。

義昭の後見人となった信長だが、元亀元年(1570年)あたりから義昭と信長の良好な関係は徐々にくずれていくことに──。
信長は「書状を発する場合には信長の検閲、許可を得ること」「天下のことは信長に任せよ」etc.. 高圧的な書状を義昭に送り約束させている。傀儡として将軍権力を利用しようとする信長に不満をもつ義昭は、次第に信長の影響力を排除して自立したいと願うようになるのだ。

信長包囲網

こうした中、同年6月には織田・徳川連合と浅井・朝倉連合による戦いが勃発。(姉川の戦い
きっかけは信長の義弟で婚姻同盟を結んでいた北近江・浅井長政の裏切りにあった。この合戦は激戦の末に織田・徳川軍が勝利しているが、両軍ともに死者や負傷者が多数であったため、姉川は血で真っ赤に染まったといわれている。光秀としてもかつて仕えた朝倉家と戦うのには心の葛藤があったかもしれない。

なお、この年は浅井・朝倉だけでなく、信長の上洛時に京を追われた三好三人衆や本願寺顕如も挙兵しており、「信長包囲網」と呼ばれる、反織田勢力との戦いがはじまった年でもある。

元亀2年(1571年)、浅井・朝倉軍が前年に比叡山に籠城したことをきっかけに、信長は9月12日に比叡山焼き討ちを実施。このとき光秀も従軍しており、信長から近江国滋賀郡に約5万石の所領を与えられた。光秀は居城・坂本城を築城している。
この頃より、義昭は諸大名に書状を送り、上洛を要請しはじめる。つまり、信長討伐のために水面下で反織田勢力を結集させようとしていたのである。この呼びかけに対して浅井・朝倉・本願寺・三好三人衆のほか、武田信玄も呼応。織田軍は各地で戦いに奮戦することになる。

元亀4年2月(1573年)には、ついに将軍義昭が信長に対して挙兵。光秀は義昭と袂をわかって信長の直臣として参戦したのである。なお、同年4月には武田信玄が病没。これによって反織田勢力の勢いは鈍り、逆に信長は7月に義昭を京から追放、続けて8月に浅井・朝倉を滅ぼして一気に包囲網を瓦解させている。

幾内方面軍の司令官へ

坂本城主となった光秀は、天正3年(1575年)には惟任(これとう)の賜姓と従五位下日向守の位が与えられて惟任日向守となる。同年は高屋城の戦いや長篠の戦い越前一向一揆にも参戦している。そして、信長から丹波国攻略を任されることになるのだ。

丹波国は山が多い傾向の土地であることから、各所に土着の武士や民である国人が乱立しており統治がしにくい場所であった。 また、丹波国の国人たちは義昭派が多く、信長が義昭を追放したことによって敵側にまわっていたのである。 黒井城を包囲した光秀は八上城主である波多野秀治の裏切りに遭い敗走。

天正4年4月(1576年)には石山本願寺との天王寺の戦いに挑むも、司令官の塙直政が戦死する。光秀自身も敵に天王寺砦を攻められてピンチとなるが、信長の援軍によって体制を立て直す。それからは過労で重病となり、生死をさまよった。また、長い間苦労を共にしてきた妻の煕子が病死してしまったりするという出来事に見舞われた。

天正5年(1577年)には雑賀攻めに従軍し、同年10月には信貴山城の戦いに参加。さらに丹波攻略を再開。亀山城を落として丹後攻略の足がかりとするも、各地で転戦を繰り返すことになり、このときの戦いは長期に及んだ。

天正6年4月(1578年)には中国地方の大名である毛利家を攻める羽柴秀吉の援軍として、播磨国に派遣されることになった。そして、同年10月には信長に対して謀反を起こした荒木村重を攻めるため、有岡城の戦いに参戦するのである。

天正7年(1579年)になると、丹波攻略は最終段階を迎えることになり、同年2月には長らく抵抗していた八上城が落城させる。8月には黒井城を落として丹波国を攻略すると、細川藤孝と協力して丹後国もすぐに攻略することになった。信長は光秀の働きを評価し、天正8年(1580年)には約29万石に及ぶ丹波一国を与えられることになり、坂本城のある近江国滋賀と合わせて34万石の所領を得ることになった。そして、丹後国の細川藤孝と大和国の筒井順慶らが光秀の寄騎として配属されたのである。

これによって、光秀が管轄する地域は近江や丹波、丹後・大和や山陰地方にまで及ぶことになり「畿内方面軍」が形作られることになった。寄騎の所領も含めれば約240万石となり、織田家の中でも確かな存在感を得る立場となったのである。ただ、その一方で丹波攻略の際には波多野秀治に自分の母親を人質として差し出すといった出来事もあった。自分の母親と引き換えに波多野秀治ら3兄弟に対して、信長のところへ赴くように説得。光秀の考えとは裏腹に信長は波多野三兄弟を処刑してしまい、人質として差し出した光秀の母親は報復として殺されることとなったのだ。

天正9年(1581年)には京都御馬揃えの運営を任され、同年6月には織田家では未整備のままになっていた軍法を整える。

なお、当時の光秀は信長に対する感謝の気持ちを記録に残していたようだ。

家法として定めた『明智家法』には「がれきのように落ちぶれ果てていた自分を召し出しそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫にいたるまで信長様への御奉公を忘れてはならない」ということが記されている。
さらに、天正10年1月(1582年)に行われた茶会のようすを記した『宗及他会記』でも「床の間に信長自筆の書を掛ける」とあるため、信長に対する敬意がうかがえる。

同年3月には武田家との最後の戦いとなる甲州征伐に従軍し、信長の息子である信忠のようすを見届けて4月21日に帰還している。

本能寺の変と光秀の三日天下

同年5月に徳川家康の接待を任されていた光秀はその任を解かれて、毛利家攻略の援軍として赴くように命じられる。しかし、光秀はその命に従うことはなかった。

運命の6月2日。光秀は早朝に出陣するものの、亀山城内か柴野付近の陣において重臣たちを集め、信長に対して謀反を起こす意志を伝えたといわれている。明智軍は信長の滞在する京に向かうことになるが、「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」と軍勢には伝えていたらしい。
しかし、『本城惣右衛門覚書』によると雑兵たちは信長を攻めるという目的を最後まで知らされていなかったという。明智軍は1万3,000人の兵で、信長の滞在していた本能寺を包囲する。このとき信長にはお供が100人ほど従っていただけであり、信長は最後まで奮戦をするも、やがて寺に火を放って自害をした。

光秀は続けて、二条御所に滞在していた信長の長男・信忠を攻めてこれを討ち取ることに成功。光秀は京を押さえると4日には近江をほぼ攻略し、5日には安土城に入った。安土城に蓄えられていた金銀財宝を自分の家臣や味方に与える。そして、9日には朝廷や寺院に対して金銭を納めた。

光秀は各地の武将や大名に連絡をして味方に引き入れようとするが、光秀の寄騎であった細川幽斎・忠興親子は光秀からの誘いを拒む。また、同じ寄騎である大和国の筒井順慶も羽柴秀吉に味方をする。光秀はなかなか味方を増やせないまま、本能寺で信長が急死したことを知った羽柴秀吉軍と13日に対峙することに──。
信長を討ってからわずか11日しか経っておらず、光秀は準備を整える間もなく天王山のふもとの山崎で秀吉軍を迎え撃つ流れとなった。「山崎の戦い」と呼ばれるこの合戦の戦力は、明智軍1万7千に対して秀吉軍2万7千といわれている。

数のうえでは秀吉軍が勝ってはいたものの、天王山と淀川に挟まれた地形では両軍とも3千程度しか軍を展開できずにいた。また、秀吉軍は池田恒興織田信孝丹羽長秀といった急ごしらえの連合軍であったため、戦が長期化すれば秀吉軍に乱れが生じて光秀の有利になる可能性もあった。

だが、実際に合戦が始まると、明智軍の主力部隊である斎藤利三隊が敗走して明智軍は総崩れとなり、秀吉側の勝利に終わった。 敗北した光秀は深夜に本拠・坂本城を目指したが、落ち武者狩りに遭って百姓に竹槍で刺されて深手を負ったという。自分の死期を悟り、最期は家臣の溝尾茂朝に介錯をさせて自害となった。
享年55歳。信長を討ってから短期間で命を落としたため「光秀の三日天下」ともいわれている。

光秀の首はその後、村井清三から織田信孝の元に届けられた。本能寺でさらされた後に、斬首された光秀の家臣である斎藤利三と共に京都・粟田口にさらされることになった。『兼見卿記』によると、6月24日に粟田口の東の路地の北に光秀の首塚が築かれたという。

光秀は生涯にわたって幾度となく合戦に参加するも多くの勝利を収め、また教養の豊かさから信長や朝廷・公家からの信頼も厚かった武将である。戦国武将の習いとしては側室を複数持つことが当たり前だった時代に、光秀は側室を置かずにひとりの妻だけを愛し、家臣全員を大事にする人物であったともいわれている。味方が戦死すると侍大将であれ、足軽であれ同額の葬儀費用を出したらしい。そういった点からも、明智光秀という人物の性格がうかがい知れるだろう。

織田家の家臣団の中でも華々しい活躍ぶりを発揮し、最後は本能寺の変を引き起こした。本能寺の変にいたるまでの過程は、まだまだ研究が進められているものの、戦国時代の中にあって明智光秀という人物が確かな存在感を示していたことは今後も変わることがないであろう。

墓所・史跡

墓所

  • 谷性寺(京都府亀岡市宮前町)
  • 西教寺(滋賀県大津市坂本5-13-1)
  • 高野山奥の院(滋賀県大津市)

西教寺は光秀の菩提寺とされており、境内には明智一族の墓が祀られている。

首塚

光秀の首塚に関しては以下の伝承がある。

  • 京都府亀岡市の谷性寺に光秀の家臣・溝尾茂朝(みぞお しげとも)が光秀の首を持ち帰って埋葬したという。
  • 京都府宮津市喜多の盛林寺の境内に細川家の旧領内で娘・細川ガラシャの元へ運ばれた首が埋葬されたという。





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