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「池田恒興」信長の幼なじみのワリに出世は遅め?

池田恒興の肖像画
織田家中での出世競争には遅れをとったものの、ただの信長家臣ではなかった池田恒興。信長死後の清須会議で柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀という蒼々たるメンバーに混じって列席。その後の運命はいかに?

信長とは乳兄弟

恒興は天文5年(1536年)に、父・池田恒利と母・養徳院との間に誕生した。この当時、父の恒利は織田家に仕えており、母はのちに仏門に入って養徳院と称した女性で織田信長の乳母を務めていたようだ。このとき信長は2歳で、乳母の乳首を噛み破る疳の強い子だったが、養徳院が乳母となってからは噛み破らなくなったという。

父・恒利は早くに亡くなったといい、その後に母は信長の父・織田信秀の側室になったとされている。恒興は信長の2歳年下で、幼少時より小姓として信長に付き従っていたというが、こうした縁から物心ついた頃より信長の乳兄弟として弟のような存在だったとみられる。のちに信長に代わって当主の座を得ようと謀反を企てた彼の実弟・織田信行(信勝)を刺殺したのが恒興という説もあり、信長は血のつながった弟以上に恒興を信頼していたのだろう。

尾張・犬山城主を経て信忠軍団として活躍

若きころより信長を支えた恒興だが、信長のさらなる躍進のきっかけとなった永禄3年5月(1560年)桶狭間の戦い、さらにその後7年を費やした美濃攻略戦に従軍するなど、武功を重ねていったようだ。

元亀元年(1570年)姉川の戦いでは、丹羽長秀と共に徳川家康の軍に加勢して、朝倉の大軍を破る手柄を立てた。その功によって尾張犬山城の城主となり、周辺の地1万貫を与えられたとされる。その後、元亀2年9月(1571年)比叡山焼き討ちやそれと前後して行われていた長島一向一揆との戦いにも参戦し、天正元年(1573年)に15代将軍足利義昭を追放した槙島城の戦いにも出陣している。

天正2年7月(1574年)から実施された長島一向一揆殲滅戦では、信長嫡男・織田信忠が一隊の大将となっており、配下に尾張衆や美濃衆がおり、恒興もここに配置されている。つまり、この頃には信忠軍団が成立し、恒興も信忠軍団の下に入ったとみられているようだ。信長からすれば大事な跡継ぎ信忠の側近として、恒興のように有能で最も信頼できる武将を付けるのは当然だといえるだろう。

信忠軍団の役割は東美濃の防衛、すなわち東の武田勝頼に対する押さえである。実際、恒興は同年に武田に奪われた明智城の押さえとして東美濃の小里城に入っている。このため、翌天正3年5月(1575年)長篠の戦いには従軍しているが、同年8月の越前一向一揆の殲滅戦には参加していない。すなわち信忠軍団は武田の押さえとして東美濃の岩村城包囲戦に参戦していたのである。

軍団組織の整備に伴い、摂津国のトップへ

やがて織田家臣団の軍団組織は変化していったとみられる。天正4年(1576年)に成立した柴田勝家を司令官とする北陸方面軍団、および、佐久間信盛を司令官とする大阪方面軍団。その他、翌年以降に成立した羽柴秀吉の中国方面軍団や、明智光秀の幾内軍団などである。

一方、信忠軍団もそのまま存続し、恒興はしばらくはそこに付属していたが、天正6年(1578年)荒木村重の謀反で勃発した摂津有岡城の戦いに参陣したことから、ここで信忠軍団を離れたとみられる。そして天正8年(1580年)には村重の最後の砦となった摂津花隈城を攻略。戦後、その功績により、恒興は村重の代わりに摂津国の支配を任せられることになった。

ところで、この年は佐久間信盛父子が功をあげなかった事で、信長から19カ条の折檻状を突きつけられて追放されている。 その折檻状の中で、信長は「恒興は"小身"でありながら、花隈城を攻略した」と言っている。つまり、この時点での恒興の織田家臣団内の序列は決して高くなかったことを意味しているのだ。

なお、花隈城攻略後に拝領した摂津の領地がどの程度の規模だったのかはハッキリしない。だが、天正9年(1581年)に鳥取攻めに関し、『信長公記』では援軍の出陣要請を受けた摂津衆の大将が恒興と記載されているから、摂津国の軍事指揮権は掌握していたと考えられている。

そのまま摂津国の守備を任せられた恒興は、天正10年3月(1582年)の武田攻めにも参加していない。そして5月には、信長から備中高松城で毛利軍と対陣している羽柴秀吉の援軍に向かうように命じられている。しかし、6月2日に本能寺の変が勃発して信長が横死したため、恒興が備中の援軍に向かうことはなかった。

信長死後は秀吉に従うも、長久手で討死

信長の死後、恒興は中国大返しによってすぐさま明智討伐に畿内へと戻って来た羽柴秀吉の軍と合流。信長の弔い合戦となった山崎の戦いで、恒興は兵5千を率いて右翼部隊の主力として明智軍を破ることに貢献したといい、その後は織田家の後継者と織田領の再分配を決める重臣会議に宿老の一人として参加することになった。(清洲会議)

会議は、織田家臣筆頭の柴田勝家をはじめ、羽柴秀吉・丹羽長秀、そして恒興の4人で行なわれ、後継者候補として信長三男・織田信孝を推す柴田勝家に対し、羽柴秀吉が信長の嫡孫の三法師を擁立。恒興と丹羽長秀はともに秀吉を支持したため、秀吉の推す三法師が後継者に決まり、かつ、所領の再分配でも秀吉と勝家の立場が逆転することに。恒興も領地再分配で摂津国のうちの大坂・尼崎・兵庫において12万石を得ることになった。

以後、恒興自身は大坂に移り、摂津伊丹には嫡男の元助を、尼崎には次男の輝政を配置することに。一方で織田家中は秀吉と勝家の派閥に2分されていき、両派とも周辺の諸大名らをも味方に取り込んで翌天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いが勃発。勝家が敗北し、秀吉が信長の天下統一事業を受け継ぐことになった。恒興はこの戦いに参戦していないにもかかわらず、美濃国の一部を与えられて大垣城に入城、同国内の岐阜城は元助が守備することになった。

天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いでは、恒興が秀吉に従うか、それとも徳川家康・織田信雄の連合軍に加担するのか、その去就が注目されたらしい。このとき秀吉は、勝利した暁に尾張一国を与えることを約束したといい、結局は秀吉方として参戦することになった。
緒戦において、恒興はかつて自身が城主を務めた尾張犬山城を攻略。その後、家康の裏をかこうと三河国への侵攻を考え、恒興の娘婿・森長可や三好信吉、堀秀政らと共に三河攻略戦を開始した。しかし、この策は家康に察知されており、長久手で攻撃されると、恒興は嫡男元助や森長可と共に討死して果てた。享年49。

なお、恒興は家康家臣の永井直勝の槍に倒れたといわれている。戦後、池田家は次男の池田輝政が家督継承することになった。
後年、輝政が家康の次女・督姫との婚姻を結んだ際、父を討った永井直勝本人から当時の話を聞く機会を得た。その際、永井直勝の知行が5千石であることを知った輝政は、父が5千石の価値しかなかったのかと嘆いたと伝わる。





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