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「若江城の戦い」信長、将軍義昭を庇護した三好宗家を滅ぼす!
──天正元年(1573年)

合戦マップ

時期天正元年(1573年)
勢力織田信長 vs 三好義継
場所河内国若江郡(現在の大阪府東大阪市若江南町)

合戦の背景

若江城は現在の大阪府東大阪に存在した城である。南北朝時代から安土桃山時代にかけて約200年近くに渡って現存した。 羽柴秀吉による大阪城の築城に伴って破却されたとの記録が残っている事から、この時代に廃城になった可能性が高い。

若江城は15代将軍・足利義昭の妹婿である三好義継が城主を務めていた。彼は叔父・三好長慶の養子となり、三好家最後の当主となった人物である。
永禄11年(1568年)に織田信長が将軍義昭を擁立して上洛を試みた際、家臣であった松永久秀と結託しこれに協力しており、信長に従属して若江城の領土を安堵。その後は信長の仲介によって将軍義昭の妹を娶ることに…。
このように義継と信長との結びつきは公私ともに非常に親密だったが、信長と義昭が対立すると、やがて松永久秀とともに義昭に味方して、反信長勢力に加わることになる。

だが、天正元年(1573年)の7月には、信長の手によって室町幕府は事実上滅亡。将軍義昭は京を追われて若江城に移ったことで事態は動き始める。

三好家には義継を補佐する池田丹後守教正・多羅尾右近・野間左橘兵衛長前という三人の家老(若江三人衆)が存在。信長が引き続き、朝倉義景浅井長政も滅ぼすのを見た彼らは、義継に対して信長への従属を再三にわたって進言したようだ。
しかし、義継は義昭と結託して信長に対抗する意思を崩すことなく、彼ら若江三人衆を遠ざけて、代わりに家臣の金山駿河守武春を家老に据えると、反信長の姿勢を加速させていった。

合戦の経過

やがて義継が義昭を庇護していることが信長の耳にも届くこととなり、事実を知った信長は家臣の佐久間信盛に討伐の挙兵令を出した。若江城の戦いの始まりである。

義継は戦力で劣る場合の戦の上策であった籠城を選択。しかし肝心の将軍義昭が義継を残して近臣とともに堺に逃亡してしまったために、兵たちの士気は著しく低下した。そして、さらに追い討ちをかけるように意見が割れ対立関係にあった池田丹後守教正・多羅尾右近・野間左橘兵衛長前(若江三人衆)が義継の忠臣であった金山駿河守武春を殺害し、三好軍を裏切って佐久間軍の兵士と内通してしまう。これによって城門内になだれ込んできた佐久間軍を止める手立ては三好軍には無く、義継の敗戦は決定的となった。

敗戦濃厚の中、義継は意地を見せ数日間の粘りを見せたが、最後は力つきて妻子を刺殺したのち、自らも自害し果てたのである。

戦後

『信長公記』には義継の最後を、多くの敵を倒した末の壮絶な最後であったとし「比類なき」という表現を用いて評価している。 現代の歴史学者たちの義継に対する当主としての評価は統計的に高いとは言い難いが、武士としての最後を評価する意見は多い。 また義継の死をもって三好家の本家の血筋は事実上途絶えている。その後、河内は信長の支配下に治り、若江城以外の河内の城は全て破却された。

義継が表立って信長に反抗し始めた明確な理由は明らかにされていないが、信長の義継に対する怒りは相当なものであったことは容易に推測でき、結果的にその判断が自らとその一族を滅亡に追いやる結果となってしまった。


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