丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「筒井順慶」本能寺後は光秀と秀吉のどっちに加担?答えは日和見

筒井順慶の肖像画
筒井順慶という武将の名は聞いたことがあるかもしれないが、どういう武将だったのかはあまり知られていない。無法時代ともいえる乱世に生まれた彼の生き様は正に「戦国時代そのもの」であり、一見の価値がある。

わずか2歳で父を亡くし、家督相続

順慶は天文18年3月(1549年)、大和国(現在の奈良県)の大名であった筒井順昭の子として誕生。

大和国はかつて興福寺が守護を務めていたが、「大和四家」と呼ばれる筒井・越智・箸尾、十市の4氏が台頭。そして、この頃には父・順昭が勢力を拡大して割拠状態の大和国をほぼ統一していたようだ。代々興福寺の衆徒である筒井家は、衆徒を取り締まる棟梁の家柄だったが、やがて興福寺を離れた立場となって大和の有力国衆へと化していた。

しかし、まもなくして父の順昭が病没し、わずか2歳で筒井家の家督を継ぐ事になる。当然、2歳の幼児では政務をとれるワケもなく、後見人として叔父の筒井順政が筒井家を取り仕切ることになった。

「元の木阿弥」

父・順昭は、遺言として自分の死を隠すように替え玉として、自分と声が良く似た木阿弥(もくあみ)という奈良の僧を寝所に寝かせて外来者を欺いたという。順慶が成長した後に順昭の死を発表すると、木阿弥は奈良へ帰されて元の身分に戻ったという。 「元の木阿弥」という ”ことわざ” は、一度よい状態になったものが元の状態にもどってしまうことを指すが、一説にこの話が語源だといわれている。

新体制としてスタートした筒井家は、しばらくは変わらずに勢力を保っていたとみられるが、永禄2年(1559年)三好長慶の重臣・松永久秀が大和国へ侵攻してくるようになってから厳しい情勢に立たされていった。この頃の室町幕府は事実上、三好政権を樹立していた三好長慶が支配していたのだ。

そして永禄7年(1564年)に叔父・順政が死去。順慶はまだ15歳であり、筒井家に暗雲が立ち込めることに・・。なお、同年には三好長慶も没している。

宿敵・松永久秀との抗争

そうした中、翌永禄8年8月(1565年)には三好三人衆と久秀らが13代将軍義輝を暗殺。(永禄の変
これは三好家と将軍義輝が過去に幾度となく対立していた間柄にあったことが根底にある。要するに三好にとって将軍権威の復活を目指していた義輝がジャマになったのである。

その後、同年11月には三好三人衆と久秀が決裂して三好家が2つに割れたが、まもなくして筒井順政の死を知った久秀が筒井城に奇襲を仕掛けてきたため、順慶は筒井城を追われて一族のいる布施城に逃れることになった。以後、順慶と久秀の間で幾度となく、筒井城争奪戦が繰り広げられることになる。

1度目の筒井城奪還

巻き返しを図る順慶は、永禄9年(1566年)に久秀と対立した三好三人衆を味方に付け、筒井城の奪還に成功。"順慶"の名は、このときに"陽舜房順慶"として改名している。
だが、永禄11年(1568年)織田信長が15代将軍足利義昭を擁立して上洛を果たすと、三好三人衆は京から追い出されたが、逆に久秀はいち早く信長に臣従した。こうして信長と将軍権力を後ろ盾とした久秀は再び筒井城を攻撃、順慶はまたもや筒井城を追われ、叔父の居城・福住城へ逃れることになったのである。

2度目の奪還

順慶はしばらく雌伏の時を過ごしたが、徐々に松永方の支城を攻め落とすなど、着々と自領の奪還準備を進めていった。そうした中、中央ではその実権を握った信長が将軍権力を抑制し、将軍義昭と不和に。このため、義昭が水面下で反織田勢力の結集に動きだすようになるが、これが順慶にプラスに作用したようだ。
というのも順慶は義昭の支援を得て元亀2年7月(1571年)に辰市城を築城することができた。そして、この城が松永攻略の重要な拠点となって、翌8月に攻め込んできた松永勢を次々と打ち破り、再び筒井城の奪還にも成功したのである。順慶22歳のときであった。
なお、辰市城の築城にあたり、順慶は農民を手厚く保護していたことから地元領民からの協力を得ている。

信長に仕え、久秀とも和睦

順慶は筒井城を奪還すると、まもなく信長に仕えるようになったとみられ、これは明智光秀が斡旋したという。

光秀は土岐氏という名門貴族の出身といわれ、将軍義昭とは上洛前より接触していたことから、上洛後には信長家臣になっていたが、織田家臣には光秀のような教養人は少なかった。順慶は荒々しいイメージの戦国武将とは違い、教養・学問の人であったことゆえに好感を持った光秀が信長に推薦したようだ。

信長と将軍義昭が対立しつつある中、信長にいち早く従属した順慶だったが、一方で元亀3年(1572年)には宿敵の久秀が逆に信長から離反して反織田勢力に加担するようになる。だが、元亀4年4月(1573年)に反織田の中心勢力である武田信玄が病没すると、7月には将軍義昭は追放の憂き目に。さらに11月にはそれを匿った三好義継も討たれ、12月には久秀も降伏を余儀なくされている。

このように紆余曲折を経て、順慶と久秀は同じ織田の傘下となるのであった。

光秀の下で活躍するが、本能寺の変では・・

順慶はその後、信長家臣として戦果を挙げ、織田家の中でも一目置かれる存在となっていく。

『多聞院日記』によると、天正3年(1575年)越前一向一揆の殲滅戦には従軍したらしい。 なお、同年には信長が塙直政に大和国の守護を命じたため、順慶の大和国の支配は制限されていた。

だが、順慶にとっては幸運なことに翌天正4年(1576年)天王寺の戦いで塙が討死したため、後任として大和守護を命じられることになった。さらに、天正8年(1580年)には織田家中で佐久間信盛が失脚し、大和支配は完全に順慶が担うようになったようだ。なお、同年には光秀を司令官とする幾内方面軍団が組織され、順慶はその配下に入っている。

この間に参戦した合戦としては、天正5年(1577年)の雑賀攻め、信貴山城の戦い天正6年(1578年)の播磨攻め、天正7年(1579年)有岡城の戦いなどがある。ちなみにライバルの松永久秀は、再び信長に背いて本拠・信貴山城で自害する運命をたどった。

本能寺の変後には日和見

そして天正10年(1582年)、本能寺の変が勃発して信長が光秀に討たれた。

光秀が謀反を起こした理由は、諸説あって定かではない。ただ、長期的な戦略として見据えたものではなく、衝動的なものだったと見られ、光秀は信長を討った後の計画を立てていなかった。そのため、味方になると期待していた武将らから見放されたのだ。

順慶は本能寺の後、まもなく光秀から誘いを受けている。光秀と親密な関係であった順慶だが、評定を重ねて返答をしなかった。 光秀は洞ヶ峠に布陣して順慶の動静を見守ったが、順慶は日和見に徹したのである。その後、光秀が中国方面から疾風の如く引き返してきた羽柴秀吉の軍勢に山崎の戦いで敗北し、没したことは周知のとおりであろう。

順慶の最期と秀吉・家康時代の筒井家

順慶は山崎の戦いの直後に秀吉に謁見した。『多聞院日記』によると、このときに遅参を叱責された順慶は体調を崩し、その噂が奈良一円に広がって人々を焦燥させたという。だが、その後に順慶は秀吉の家臣となって大和国の所領を安堵された。

天正12年(1584年)頃より体調を崩して床に臥していったようだが、同年に勃発した小牧・長久手の戦いでは秀吉から出陣を要請され、病気をおしてまで出陣。だが、この戦役が負担となったのか、順慶は大和へ戻ったのちに病没。享年36であった。

順慶の死後、順慶の養嗣子・定次が家督を継いだ。
豊臣政権下では主要な合戦に従軍し、国替えによって大和国から伊賀国上野に移封となっている。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後は徳川家康から所領を安堵されたが、慶長13年(1608年)にはお家騒動をきっかけに筒井氏は改易に。さらに定次は大阪の陣の際、豊臣家への内通の疑いで嫡男順定とともに自害させられている。





おすすめの記事

 PAGE TOP