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「高山右近」あまりにも波乱万丈!?戦国期の代表的なキリシタン

高山右近の肖像画

11歳のとき、洗礼を受ける

高山右近は天文22年(1553)、摂津の武将・高山友照の嫡男として誕生。
当時、父の友照は摂津国島下郡の土豪で三好氏に仕えていたが、永禄3年(1560年)に三好重臣の松永久秀に従って大和国宇陀郡の沢城を陥落させると、その守備を任せられて城主に。

右近が11歳となった永禄6年(1563年)には、父がキリスト教の教えに感化されたことで、家族そろって洗礼を受けることになった。このとき、右近は「ジュスト」という洗礼名を授かったとされる。

この頃、幾内の実権は三好家が握っていたが、まもなくして当主の三好長慶が病没。さらに永禄11年(1568年)織田信長が上洛して15代将軍足利義昭を擁立すると、その実権は信長が握ることに・・。三好三人衆らは追い出され、摂津国の支配は「摂津三守護」と称された池田勝正・伊丹親興・和田惟政の3名に任せられることになった。このため、高山父子は和田惟政の傘下に入る形となるのであった。

和田家の暗殺計画を乗り越える高山父子

こうした中、のちの主君となる荒木村重が台頭。村重は池田勝正に仕えていたが、三好三人衆の調略を受けて池田知正と共に勝正を追放して池田家中を掌握すると、元亀2年(1571)には白井河原の戦いで和田惟政を討ち取っている。 その後、高山父子は惟政の嫡子で若年の惟長に従い、和田家中で相談役を担った。しかし、これに不満をもつ和田家臣らが讒言したことで、高山父子の暗殺計画が持ち上がった。
暗殺の件が高山父子の耳に入ると、友照は荒木村重に相談して「殺される前に殺すべき」との助言をもらい、戦う際の軍事支援も約したようだ。なお、村重はこの頃既に三好を離れ、信長に仕えている。

そして元亀4年(1573年)、和田惟長から「話し合い」との名目で高槻城に呼び出されるが、高山父子は少数の家臣を引き連れて城へ赴き、待ちかまえていた惟長らと斬り合いになったという。乱闘の末に和田惟長を倒したものの、この戦いで右近は誤って家臣に斬りつけられて首を半分ほど切断するとんでもない重傷を負った。しかし、奇跡的に助かったため、右近はますますキリスト教への信仰をますます深めることになったらしい。

荒木村重に仕えるも・・

以後、高山父子は荒木村重の配下となった。

この騒動の後、摂津の高槻城を拝領することになり、この地でセミナリオや教会を多数儲けてキリスト教の布教活動に力を入れ、高槻は国内有数のキリシタンの拠点と化したようだ。一説にのちの右近は神社仏閣を破壊して代わりに教会を建てるなど、家臣領民の改宗のために強引な手段も辞さなかったという。

しばらく村重の元で仕えていた高山父子だが、天正6年(1578年)に村重が突如信長に反旗を翻す。右近は村重を説得するために嫡男らを人質に差し出すなど務めたが、結局うまくいかなかった。信長から「右近が出頭しなければキリシタンを壊滅させる」旨の脅迫を受けた右近は、悩んだあげく、領地を捨てるという形をとって事実上信長に従属することになった。

一方、父の友照は徹底抗戦すべきと主張して村重方に残った。村重らは毛利氏など反織田勢力の支援をあてにして籠城したが、右近の離脱などが響き、翌天正7年(1579年)には村重が妻子や家臣を置いて単身で城から脱出し、嫡男・村次のいる尼崎城へ向かい、有岡城はまもなくして落城。
信長は村重が尼崎城を明け渡せば、妻子を助けるとしたが、村重がこれに応じなかったため、村重の妻子・家臣は見せしめのために処刑された。なお、友照は右近の助命嘆願によって越前へ追放となっている。

その後、右近は信長家臣として再び摂津高槻城を与えられ、天正8年(1580年)には安土城下に屋敷地も与えられている。軍事面においては明智光秀池田恒興とともに幾内周辺の合戦に従軍したとみられる。

秀吉に仕えたが、バテレン追放令の餌食に

村重の謀反後は信長に仕えていた右近だが、その信長も本能寺の変で明智光秀に討たれた。信長の弔い合戦として羽柴秀吉が光秀討伐に駆け付けた山崎の戦いでは、右近は秀吉方に味方して先鋒を務めている。いずれも天正10年(1582)のことである。

以後は信長の天下統一事業を受け継いだ秀吉に臣従し、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い天正12年(1584年)小牧・長久手の戦い天正13年(1585年)の四国攻め、天正14-15年(1586-87年)の九州征伐などに従軍。この間に播磨国明石郡に移封している。

右近は人徳があったことから、周囲の武将たちにも多大な影響を及ぼしたようだ。蒲生氏郷黒田官兵衛といった面々が影響を受けてキリシタンとなるなど、宣教師らを喜ばせた。
右近の親しい友でもあった細川忠興は入信こそしなかったが、右近から聞いたキリスト教の話を妻に聞かせ、その話に感じ入った彼女は後年入信を決意している。よく名の知られている細川ガラシャである。

また、右近は茶人としても知られ、利休七哲と呼ばれる千利休の高弟の中でも別格の存在となっていた。一流の文化人、そして人望あるキリシタン大名として、秀吉の天下の元で順風満帆の日々を送るはずだった右近だが、天正15年(1587年)、秀吉が発令したバテレン追放令により、その人生は一変することに・・・。
キリスト教を捨てるように迫る秀吉に対し、右近は信仰を守り抜くことを告げて領地をすべて返上。その後は表向きに棄教して身分を守った小西行長に匿われて過ごすが、行長が戦功をあげて九州に転封したころに、今度は加賀の前田家に迎えられて客将として遇されることになった。

優れた武将で、かつ築城の名手でもあった右近は、追放処分の身でありながら天正18年(1590年)の小田原征伐にも前田軍に属して参加したとされている。また、前田領内の城の修築を手伝うなど、信仰を守りながら武将として生き続けた。秀吉は半ば右近を許していた気配があり、前田利家をはじめとして、右近の旧知の者たちは彼の大名としての復権に奔走していたとも言われているが、それは叶うことなく秀吉は世を去った。

徳川の世では国外追放に

世は天下分け目の関ヶ原の戦いへと突入していったが、右近は東軍に属して前田軍の参謀のような形で出陣したらしい。

徳川の世となっても引き続いて利家の嫡男・前田利長の庇護下にあった右近は、前田家の客将として金沢で過ごしていたが、やがて徳川幕府がキリスト教禁教政策を強化し、キリシタン国外追放令を発せられた。徳川幕府は大坂の陣を前に、大坂城に入った多くのキリシタン兵らに揺さぶりをかける目的もあってキリシタンの象徴的存在だった右近の追放を決めたとも言われている。また、右近とともに国外追放を命じられた者の中には、かつて小西行長の腹心として朝鮮出兵で明国との交渉にあたった内藤如安やその妹もいたという。
そして慶長19年(1614年)、近江国坂本に居住していた右近は妻子とともに長崎へと送られ、最終的には内藤如安らとともにマニラに向けて船出となった。

何度か嵐にも遭遇して大切な書物が濡れるなど苦難の多い航海だったようだ。ようやく到着したマニラでは人々から大歓迎で迎えられ、総督ら権力者からも歓待を受けたという。だが、航海中から体調を崩していた右近は到着からわずか40日後となる慶長20年正月(1615年)に病没。彼の死をマニラ市民は深く悲しみ、総督らによって盛大な葬儀が営まれてイエズス会の聖堂近くに埋葬された。





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