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「お市の方」信長の妹は乱世に翻弄された悲劇のヒロインだった!?

お市の方の肖像画

お市の方といえば、大河ドラマでお馴染みの女性であり、信長の妹や浅井三姉妹の母としてよく知られている。彼女は名古屋美人の一人としても有名であり、「絶世の美女、戦国一の美女」などと賞賛の声は尽きない。

本記事ではそんな彼女の波乱万丈の生涯と人物像に迫ろうと思う。

あいまいな血縁・前半生

お市の方が歴史の表舞台に登場するのは、政略結婚で浅井長政に嫁がれたときである。それ以前に関しては彼女を語る史料が少ないために殆どわかっていない。

生年は享年から算出した場合に天文16年(1547年)となり、信長とは13歳離れていることになる。通説では父は織田信秀、母が土田御前とされており、この場合は信長の同母妹ということになるが、これは確証がない。

異説に信長の従兄妹という説もあり、江戸時代の史料の中には「お市は信長のいとこであるが、妹と披露して長政と婚姻させた」という記述がある。これは大名が血縁関係にない人物(重臣の娘など)を養女にして婚姻に出すのと同じようなもので、こうした事例は戦国時代においてよく見られる。

浅井への輿入れとその背景は?

長政との婚姻時期については、以下のように諸説あって定かでない。

  • 永禄4年(1561年)説(『川角太閤記』)
  • 永禄6年(1563年)説(高柳光寿氏)
  • 永禄10年(1567年)説(西ヶ谷恭弘氏)
  • 永禄11年(1568年)説(奥野高廣氏)

ただ、近年の研究では永禄10年(1567年)永禄11年(1568年)が有力とみられている。

この政略結婚は織田と浅井の同盟の証として行われたものだが、その背景はどのようなものだろうか?

浅井家はかつて六角氏と対立関係にあったが、長政の父・浅井久政の代には六角氏に服属する形で長政も六角重臣の娘と政略結婚をさせられていた。しかし、浅井家中で新当主に長政が担ぎだされると、一転して六角氏から独立し、妻も離別して六角氏に送り返して再び対立関係となった。

一方で信長も美濃平定戦を進めていたが、室町幕府の再興と上洛を目指していた足利義秋(のちの足利義昭)が信長を頼ってきた。 この義秋が浅井氏と織田氏の縁談を取り計らったらしく、当初の長政は信長の実力に懐疑的で縁談もしぶっていたが、信長が永禄10年(1567年)に斎藤氏を破って美濃平定を果たすと、まもなく縁談が成立したと考えられている。実際、美濃平定から1カ月後に長政から信長に接近を試みているのが史料で伺えるのである。

お市の方というのは通称だが、この他にも「小谷の方(おだにのかた)」「小谷殿」「市姫」「秀子」などとも呼ばれていたらしい。「小谷」というのは浅井氏の居城・小谷城にちなんでのものだろう。

長政とお市の夫婦仲は良かったようだ。

結婚した2人の間には長女の茶々、次女のお初、三女のお江が生まれている。長女茶々はのちに秀吉の側室となって豊臣秀頼を生み、次女お初は京極高次の正室に、そして三女のお江は徳川秀忠の正室として徳川家光の生母となった。この浅井三姉妹は織田・豊臣・徳川という天下の家柄と深く関わったことでよく知られている。

しかし、信長が上洛して事実上の織田政権を樹立すると、まもなくしてお市や娘たちの日常に激震が走ることになる。

夫と兄が敵対するという悲運

上洛後の信長は、将軍の権威を借りて越前朝倉氏に上洛要請を行うも、これに応じない朝倉義景に業を煮やし、元亀元年(1570年)に朝倉攻めを開始。しかし、浅井と朝倉はかねてから友好関係にあり、信長は浅井との同盟時に朝倉を攻めないことを条件にしていた。
この約束を破ったため、長政は途中で朝倉方に転じたのである。

このころ、信長はすでに長政を単なる縁者ではなく、家臣と見なしていた。そして長政謀反の知らせを聞いても、最初は一向に信じなかったらしい。
一方、このときこのときお市は陣中見舞いと称して信長の下に、両端が紐で縛られていた小豆の袋を届けさせたという。これは袋の両端の紐は浅井と朝倉の両ばさみとなった信長を暗示しており、長政の謀反を兄信長に知らせたものである。これで信長はようやく長政の離反を悟り、お市の知恵と配慮に感心したという。(『朝倉家記』)

このお市のエピソードは創作と考えられているが、彼女が一般に広く知られることになったきっかけの一つとして有名なものである。

その後、信長は金ヶ崎の退き口と呼ばれる撤退戦を行ない、かろうじて京へと逃れた。ここに織田家と浅井家の同盟は破たんし、以後は織田軍と浅井・朝倉連合軍の3年余にわたる戦いとなる。兄と夫の対立にお市が心を痛めていたのは想像に難くないだろう。

天正元年(1573年)には信長によって長政の居城・小谷城が陥落させられ、浅井家は滅んだ。

織田軍による小谷城の総攻撃の前には、両者間で長政とお市の去就をめぐって交渉があったらしく、長政はお市の命乞いを行っている。お市は長政に対して共に死ぬことを申し出たが、これは受け入れられず、結局は長政の説得を受けて三人の娘と一緒に信長の陣屋に向かったという。

こうして小谷城陥落時に夫長政は自害となり、お市と3人の娘は織田家に引き取られることになった。なお、長政には少なくとも嫡男万福丸と二男万寿丸の2人の息子がいたことで知られるが、いずれもお市の方との間に儲けられた子供ではないとみられている。
嫡男万福丸は家臣に匿われていたが、のちに探し出されて串刺しの刑にされた。二男の万寿丸は幸いにも殺されず、仏門に入ってのちに のち近江国坂田郡長沢村の福田寺の住職になったという。

またも政争の道具として再婚。その最期は?

織田家に戻ったお市と三人娘は、最初は岐阜城、次いで清洲城で過ごし、やがて兄である織田信包の庇護を受けて、その居城である伊勢・上野城に移ったと考えられている。ただし、近年の研究では信長の叔父で尾張国守山城主の織田信次に預けられた説も浮上している。
いずれにしてもしばらくは平穏な日々を過ごしたと思われるが、天正10年(1582年)に本能寺の変が勃発して兄信長がまさかの死を遂げる。その後、すぐに織田家中で重臣らによる清州会議が行われ、羽柴秀吉の推挙によって織田信忠の遺児・三法師が後継者となった。

なお、この会議ではお市と柴田勝家との結婚(再婚)が承諾されている。この再婚は、従来は織田信孝が勝家との関係強化のために仲介したとされている。しかしその一方で、三法師を後継者にしようとした秀吉が、信孝を後継者に推した勝家の不満を抑える意図があって、秀吉が仕向けたという見方もある。

二人の婚儀は信孝の居城である岐阜城で行われ、お市と3人の娘は勝家の北ノ庄城に移った。しかし、この再婚も長くは続かなかった。元々犬猿の仲で有名な秀吉と勝家は互いに派閥を形成して覇権を争い、翌天正11年(1583年)にはついに賤ヶ岳の戦いで決戦を迎えたのである。

周知のとおり、この戦いで柴田方は劣勢となって押し込まれ、勝家は北ノ庄城に戻ったものの、最終的には城内で自害した。
『溪心院文』によると、お市は北ノ庄城の落城の際、秀吉に3人の娘の保護を託す旨の書状を送ったといい、また、37歳というこの時点の実年齢よりもはるかに若い22~23歳に見えるほど若作りの美形だったともいう。このほか、娘たちとの別れの際には「浅井と織田の血を絶やさぬように」と娘たちに言い聞かせ、自分の後を追わぬように諭したとされている。

結局、お市は三人の娘を城外に出し、自らは夫の勝家と共に自害して果てた。同年4月24日没、享年37。以下はお市の辞世の句。

さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ 郭公かな

一方でこれに応じた勝家の辞世は以下。

夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山郭公(やまほととぎす)

ところでお市はなぜ勝家とともに死を選んだのか?それは以下のような様々な憶測がなされている。

  • 縁座(罪を犯した本人だけでなく、その家族などにも刑罰が及ぶこと)が拡大傾向にあったこと。
  • 勝家の側室や女房らも自害の覚悟を決めたこと。
  • 帰るべき織田家がもはや存在しなくなっていたこと。

なお、一方でお市生存説も残っている。彼女は北ノ庄城落城前夜に密かに城を脱出して、近江の国友村の浅井家の残党である人物の案内で伊賀の下友田に移り住んで、秀吉死後の翌慶長4年(1599年)に没したというものであるが、歴史的根拠はない。





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