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「織田長益(有楽斎)」信長の弟の中でも異色?茶人として大成。

織田長益の肖像画
織田長益は織田信長の弟であり、本能寺の変後は信長二男・織田信雄に仕え、信雄改易ののち秀吉から豊臣性を下賜されている。 千利休に茶道を師事、茶人としての評価も高い。関ヶ原合戦では東軍に参加。その後、大阪城にて豊臣家を補佐するも、大坂夏の陣を前にして隠居している。

生まれから青年期まで

1547年、織田信秀の11男として生まれる。信長は13歳年上の兄である。長益の若い時期の生活はほとんど現存する資料がないために不明な点ばかりである。一説によると、子供の頃は非常に病弱であり、戦などの表舞台にはあまり参陣しなかったと言われているが、立証できる歴史的資料や記載はない。

1572年、信長の嫡男、信忠が元服すると長益は信忠の軍に身を置いた。 1581年の御馬揃えに信雄などと並んで長益の名が見られた。翌年の左義長(火祭り)では信忠・信雄に次いでの序列となっている。 1582年、正室の雲仙院との間にのちに家督を継ぐ織田頼長が誕生している。同年の甲斐の武田勝頼攻めでは信忠軍として出陣。降伏した深志城の受け取り役も務めた。

本能寺の変以降

本能寺にて明智光秀の裏切りによって兄である織田信長が自害に追い込まれると、信忠と共に一時二条御所に籠城。信忠は自害して果てたが長益は敵の目を盗んで脱出に成功し、岐阜へ逃れた。

その後は信長の次男である信雄に仕える。徳川家康と羽柴秀吉が戦った小牧・長久手の戦いにおいては、織田信雄勢として家康側に与し助力した。合戦後は家康と秀吉の講話折衝役を務めた。なお、事実関係が定かではないが、降伏した佐々成政と秀吉の間をとり持つような働きをしたとも言われている。

上記のような活躍もあり、1588年、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。また千利休に茶道を師事。利休十哲の一人にも名を連ねている。

1590年、信雄が改易されると秀吉の側近として摂津国に2000石を拝領、この頃剃髪して(有楽斎)と称したと言われている。 姪の茶々とは深い関係にあり、茶々の後ろ盾、保護者的な存在となっていた。

関ヶ原以降

秀吉亡き後、徳川家康と石田三成を中心に起きた関ヶ原の戦いでは東軍家康側に加味、長男の織田長孝と共に総勢450余りを率いて参戦。寡兵であったが小西行長大谷吉継・石田三成・宇喜多秀家隊と交戦し、石田隊の横槍を撃退するなどの活躍を見せた。 そして、長益が石田家家臣の蒲生頼郷を討ち取り、長男の長孝も戸田重政・内記親子の首を討ち取るなど大きな戦功を上げた。

関ヶ原の後、その武功が認められ、長益は大和国内に3万2千石、長孝は美濃野村藩に1万石を与えられ大名に列した。長益は関ヶ原以降も大阪城で豊臣家を支え、秀吉の息子である豊臣秀頼を補佐し続けた。茶人としての活動も精力的にこなし、この時期に京都に正伝院を再建し院内に如庵を建設した。正伝院は明治期に名を正伝永源院と改め、長益夫婦らの墓が現存している。茶室の如庵は現在は愛知県の有楽苑に移築されている。

徳川勢と豊臣勢の関係が拗れ起こった大阪冬の陣では、大阪城にて二の丸などの守備に貢献。長益自身は穏健派として知られており、大野治長らと共に豊臣家を支えた。共に大阪城を守護していた嫡男の頼長は、父とは違い強硬派でしばしば意見が対立していたと言われている。

大阪冬の陣の後も豊臣と徳川の間をとり持つ役として尽力するが、大阪城は真田丸を取り壊され、外堀も埋められてしまうなど徐々に豊臣側に劣勢な状況となってゆく。そして豊臣側に再戦の空気が高まると、徳川家の許しを得て大阪城から離れた。

大阪城を出た後は京都にて隠居。茶道に専念し余生を暮らしたと言われている。長益が建立した如庵は国宝指定されており、現在国宝に指定されている茶室は、京都の大山崎町にある妙喜庵の待庵、大徳寺塔頭の龍光院の蜜庵、そして長益が建立したこの如庵である。 平成8年には長益の墓がある正伝永源院の境内に如庵のコピーが復元されている。室内には創建当時に使われていた暦が貼られており、有楽窓など長益(有楽斎)の好みの特長なども垣間見ることができる。 1615年、子である長政、尚長にそれぞれ1万石を分け与えて、自身の手元には隠居料として1万石だけを残した。 1621年、12月13日、京都にて死去。享年76。

有楽斎と有楽町

東京の有楽町という地名には由来が諸説あるが、そのうちの一つに織田長益(有楽斎)が関係しているというものがある。 戦国末期の慶長年間に、関ヶ原の戦いの功績から徳川家に与えられた有楽斎の屋敷がこの地域に存在し、有楽斎の死後その土地が空き地になっていたことから、当時この地域に住んでいた人々が「有楽の原、有楽原」と読んでいたことが由来だとされている。 しかし、関連する歴史的資料や織田家の資料に有楽斎がこの地に居を構えていた旨の記載は見つかっておらず、俗説である可能性が高い。

家康が江戸城に入城後、入江の埋め立てが進められ、この地域に大名屋敷が連なっていたこともこのような説が伝わっている原因の一つと考えられる。現実には有楽町という名前は、明治に入ってから隣の永楽町と共に成立した町名であり、名前が似てしまっただけの偶然であると言われている。





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