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尾張統一も間近?岩倉織田氏の攻略
──永禄元-2年(1558-59年)

浮野合戦場址

戦いの背景

永禄元年(1558年)3月7日、信長は今川方の部将・松平家次が守備する尾張国品野城を攻めたが、敗北している(『家忠日記増補』『松平記』『三河物語』など)。

このころの信長はすでに清洲織田氏を滅ぼし、家中の謀反も治めて尾張統一に近づきつつあった。しかし、未だ尾張上四郡は岩倉織田氏の守護代・織田信安が支配していた。

また、おそらくこの頃、尾張守護の斯波義銀が同族の石橋氏や三河の守護・吉良義昭と謀り、信長への謀反を画策したが、信長に知れたために3人は国外追放となっている。

そうした中での同年5月、信長に好機が訪れる。岩倉織田氏で守護代の織田信安が嫡男・信賢と不和になって追放されたのである。これを機に信長は岩倉城攻めを決意。

浮野の戦い

信長は父・信秀死後に独立勢力化していた犬山城主・織田信清を自分の姉・犬山殿を嫁がせることで味方にすると、7月12日、信長は2千の軍勢を率いて清洲城を出立、北上して浮野の地(尾張国丹羽郡浮野、現在の愛知県一宮市千秋町浮野)に陣を敷いた。

一方の信賢軍は3千もの軍勢で岩倉城を出陣し、両軍は浮野で衝突。織田信清の援軍もあって結果的に信長・信清連合軍の大勝となったのであった。
この戦いで信長は1200余を討ち取ったといい、信賢は岩倉城へ敗走した。

岩倉城攻め

信長は翌永禄2年(1559年)にも再び岩倉城を攻撃する。城下に放火して裸城にし、四方に鹿垣を設けて鉄砲・火矢を放って攻撃するという2~3ヶ月の包囲戦を展開し、ついに織田信賢を降伏・開城させた。
戦後、信長は岩倉城を破却し、清須城に帰陣した。

この戦いでの岩倉城陥落の時期は諸史料によって「3月・この春・この年・ある時」などと一定しておらず、はっきりしていない。 いずれにしてもこの岩倉城攻略で、信長の尾張統一はほぼ実現されたのである。

なお、この岩倉城攻略の前後かどうかは定かではないが、信長は2月2日に随行の者80人を連れて初上洛し、京都や奈良・堺を見物して13代将軍・足利義輝に謁見し、数日在京したようだ。信長は尾張統一をほぼ達成したタイミングで、将軍から尾張守護職を拝任することにあったようである。





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