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「魚津城の戦い」無駄死にか否か?十三将の最期
──天正10年3-6月(1582年)

魚津城跡にある石碑
魚津城跡にある石碑
魚津城の戦いは、柴田勝家ら北陸方面軍団が越中における上杉方の要所・魚津城を攻め落とした戦いであり、落城の日に最後まで戦い抜いた魚津在城衆13人の守将全員が自刃して果てたことでも知られる。

合戦マップ

時期天正10年3~6月(1582年)
勢力織田軍 vs 上杉軍
場所越中国魚津城周辺(現在の富山県魚津市)

合戦の背景

織田軍に北陸方面軍団が形成され、司令官として柴田勝家が北陸方面の制圧を一任されたのが天正4年(1576年)。この年はこれまで同盟関係にあった越後の上杉謙信が本願寺と和睦したことで織田と敵対関係になった。

上杉家では天正6年(1578年)に謙信が病没したことで後継者争いが勃発。(御館の乱上杉景勝が新当主となるが、この内訌は収束までに2年近くかかっており、戦後は恩賞問題によって家臣の新発田重家が謀反を起こして独立するなど、上杉方の軍事力は衰退傾向にあった。
一方で、柴田勝家も加賀攻めで一向一揆勢力に苦戦しており、ようやく加賀を平定したのは御館の乱が収束した後の天正8年11月(1580年)である。しかし、加賀平定後の能登・越中の2国の侵略は速やかに進んだようだ。というのも上杉方の家督争いや織田方の加賀平定を背景に、一時は上杉方に従っていた両国の国衆らの多くが織田方に転じていたからだ。

勝家らは能登を難なく平定し、翌天正9年(1581年)には越中の大部分も制圧することに成功した。なお、同年に信長は前田利家を能登国主とし、佐々成政にはまだ制圧途中にあった越中国を与え、同時に上杉方への内通の疑いがある両国の国衆らを次々に粛清している。つまり、能登・越中両国の基盤固めをすすめていったのである。

合戦の経緯

当時の魚津城とやや東南に位置する松倉城の2城は、上杉氏の本拠・春日山城を守るためになくてはならない要衝の城であった。 これらが織田方の手に渡ると、越中支配どころか、そのまま本国の越後まで侵略を許してしまうことになる。
そして天正10年(1582年)の3月、勝家ら織田軍は4万もの兵で魚津城と松倉城を包囲。対する上杉軍は3千8百の兵というように圧倒的に劣勢であった。このため、魚津城は当然のごとく、籠城戦で立ち向かうことになる。

多勢に無勢のため、彼らはしきりに上杉景勝に援軍要請を依頼、しかし、その頃の景勝は越後にあって動くことは不可能だった。 越後国内で謀反を起こした新発田重家、さらには隣接する信濃国に在陣する織田軍の動向に目を離せなかったためである。このため、景勝は代わりに越後に亡命していた温井・三宅・遊佐ら越中衆のほか、赤田城主・斎藤朝信や松倉城主・上条政繁らを派遣してなんとか応戦させた。
だが、5月に入って魚津が窮地に陥ったため、景勝は4日にやむなく春日山城を出陣し、15日には魚津の東方にある天神山に着陣した。この間の6日には魚津城の二の丸が占領されていたほどであったから、十三将らにとって景勝本隊の到着は相当心強かったに違いない。しかしそれも束の間であった。

5月下旬、織田家臣で森長可滝川一益らがそれぞれ信濃・上野から越後侵入の兆しを見せたため、景勝はやむなく退陣。こうして魚津城は再び孤立無援の状態に置かれてしまった。

そして6月3日、再び織田軍の総攻撃が開始されると、魚津城の守将らは悲壮にも最期の最期まで徹底抗戦し、自刃して果てたというのだ。このときに没した以下の13人の守将、いわゆる”魚津在城十三将”は後世にその名を知らしめることになった。

  • 中条景泰
  • 竹俣慶綱
  • 吉江信景
  • 寺嶋長資
  • 蓼沼泰重
  • 藤丸勝俊
  • 亀田長乗
  • 若林家吉
  • 石口広宗
  • 安部政吉
  • 吉江宗信
  • 山本寺景長
  • 吉江景資

上記のうち、中条景泰・竹俣・吉江信景の3人は上杉謙信の代からの側近である。また、藤丸・亀田・若林は上杉謙信が加賀侵攻したときに上杉家臣となった元加賀一向宗門徒の国衆とみられる。山本寺景長は上杉一門衆である。
彼らが直江兼続に宛てた書状「魚津在城衆十二名連署状」では、窮地に陥っている現状と、滅亡の覚悟が綴られた書状が送られており、当時の凄惨な様子を窺い知る事ができる。ちなみに吉江景資の名は連署状に含まれていないが、同時期に死んだと考えられている。

なお、彼らの屍の耳には穴が開いており、そこに各人の名が刻まれた木札が鉄線で結ばれていたという。

戦後

皮肉なことに前日の6月2日には本能寺の変で信長が横死しており、その後まもなくして勝家ら織田軍は四散し、魚津城はそれを知った上杉軍によって奪回されている。もしあと1日持ちこたえていたら、十三将の死はなかったかもしれない。





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