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「村井貞勝」信長の初期における近習でトップの逸材。

村井貞勝の肖像画
村井貞勝といっても、あまり知られていないかもしれないが、彼は織田政権下の京都所司代として京都の行政に関して大きな功績を挙げたいわば「縁の下の力持ち」だった人物である。今回は信長の天下布武を影で支えた功労者の彼に光を当ててみたい。

魔王から信頼された男

貞勝の出自や前半生はハッキリしないが、永禄17年(1520年)かそれ以前に、近江国で生まれたとされている。

年齢的に考えると、織田信長の父・織田信秀の代から仕えているのが自然だが、そうした記録が今のところ史料にない。このため、信長の代になってから織田家に仕えたとみる見方もあるようだ。史料の初出は天文(1532-55年)の末年頃と推定される連署状である。弘治2年(1556年)には、若くして当主を務めていた信長が、織田の家督を狙う弟信勝とこれを支援する林秀貞・柴田勝家らを稲生の戦いで破っているが、このとき貞勝は島田秀満とともに信長と信勝の母・土田氏に呼びだされている。土田氏は信勝を溺愛していて、この謀反の黒幕とみられ、貞勝らに講和の仲介を頼んだのである。貞勝は早くもこの時点で信長・信勝兄弟の仲介を頼まれるほどに信任を得ていたのがわかるだろう。

その後、永禄10年(1567年)に西美濃三人衆が信長に降伏して人質を差し出す際には、彼らの人質受け取りの使者として、翌永禄11年(1568年)足利義昭が将軍職に就くために信長を頼ってきたときも、出迎えの使者を務めている。

同年に信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した際にも、貞勝はこれに付き従い、木下秀吉(のちの羽柴秀吉)などの諸将らと京に残されて様々な政務を担当していたようである。そしてこの時期における彼の功績は数多く、二条城の造営や皇居の修繕など、織田家の京都における重要な任務は彼が担当していた。こうした京都での任務に伴い、朝廷や公家との強いつながりも持つようになっていく。

将軍追放により、貞勝が京都所司代へ

やがて信長と将軍義昭が不和になると、天正元年(1573年)には信長が将軍義昭を追放して室町幕府を滅ぼすと、貞勝が「京都所司代」に任命され、治安維持から朝廷との交渉まで京都における政務全般を担当する立場となった。

2年後の天正3年(1575年)には、朝廷との繋がりから正六位、長門守にまで叙任されている。この事実からみても貞勝が織田家になくてはならない重要な人物であったということは疑念の余地がない。そして、その後も本能寺の普請などの大きな仕事を行い続けた貞勝は、天正9年(1581年)に出家し、名を村井長春軒と改め、家督を息子の貞成に譲ることとなった。もっとも京都所司代の職は引き続き貞勝が引き受けていた。

本能寺で主君と運命を共に。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が突如、主君信長に反旗を翻し、彼の眠る本能寺へと軍を突入させた。これが世に名高い本能寺の変である。そしてこの大事件が貞勝の最期ともなってしまった。

変が起きた当初、貞勝は本能寺の向かいに位置する自邸にいたが、そこからは辛くも逃げ出すことに成功した。そうして信長の嫡男信忠が居る妙覚寺へと逃げ込み、そこから彼は信忠と共に、自身が造営をした新二条御所へと移動。しかし迫り来る明智の大軍の前にはなす術もなく、抗戦の後貞勝は、信忠や息子と共に、戦場に果てることとなった。
なお、この事件の後、京都所司代には新しく前田玄以が任じられることとなる。

貞勝は織田家に仕えた長い期間、決して他の武将のように戦場で目立った活躍をしたわけではない。だが、重要拠点である京の支配を一手に引き受けていた貞勝の存在は、織田家になくてはならないほどの重要性を持っていたのである。またイエズス会の人間であるルイスフロイスは、貞勝を指して「尊敬できる異教徒の老人であり、大きな権勢を持った都の総督」と評した。

荒々しい戦国の世において、地味ながらも人格者であり大人物であった貞勝の魅力は、今後ますます注目されていくのではないだろうか。





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