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「森可成」十文字槍の使い手 "攻めの三左"。その死が惜しい!

森可成の肖像画
織田信長の天下統一を支えた武将たちの中には、もし生き延びていれば大藩の藩主になっていただろう人物も少なくない。森可成もそんな人物の一人である。信長の覇業を支え、道半ばにして戦場に散った可成の生涯を見ていこう。

信長の初期の家臣

森可成(よしなり)が生まれたのは大永3年(1523年)で、織田信長より10歳程年長になる。生まれた尾張の葉栗郡は美濃との国境沿いで、最初は美濃の大名である土岐氏に仕えていた。この土岐氏が斉藤道三に滅ぼされると、道三には仕えず尾張へ移って、まだ若かった信長の下に加わった。このあたりの経緯ははっきりしないが、この時点で信長の家臣になっている美濃者はほとんどいない。信長にとっては、隣国美濃の事情に明るい貴重な家臣だったと見られる。

可成は信長家臣団の初期の一員として、家督を継いだ信長の尾張統一戦争を共に戦っていく。弘治元年(1555年)に信長が清州城を攻め落とした時には、城主の織田信友を討ち取る大手柄を立てた。その後、弘治2年(1556年)には信長の弟・信行との稲生の戦い永禄元年(1558年)には岩倉城主・織田信賢との浮野の戦いと、常に信長のそばにあって活躍している。

股肱の臣として活躍

今川義元を討ち果たした永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでも信長と馬を並べ、尾張統一後は美濃攻略戦の先頭に立っていく。美濃を完全に攻略し終える前の永禄8年(1565年)に、早くも美濃国内の金山城を与えられた。かつて美濃の土岐氏に仕えていた経験を買われていたのもあろうが、有名な柴田勝家丹羽長秀、羽柴秀吉たちとほぼ同等の扱いを織田家中で受けている。信長の股肱の臣と呼んで差支えないだろう。

永禄11年(1568年)信長が上洛し、京都周辺を支配下に収めると、可成も織田家の有力家臣として活動していく。上洛の際の勝竜寺城の戦いでは、勝家と並んで先鋒を務めた。上洛後は近江宇佐山城を与えられ、美濃・尾張と京都とのルートを確保する重要な役割を担っている。

可成の死

元亀元年(1570年)6月の姉川の戦いでも、織田家中の一翼を指揮している。織田家の有力家臣になっていた可成が、もしこのまま生きながらえていれば、豊臣秀吉政権でも大きな勢力を得て、のちの歴史に深く関わっていたかもしれない。しかし、姉川の戦いが終わって間もない9月、可成は命を落とす。姉川で敗れた越前の朝倉氏と北近江の浅井氏が、比叡山延暦寺と結んで逆襲に転じ、近江の各所で一斉に蜂起したのである。

宇佐山城を出て近江坂本に陣した可成は、9月16日には朝倉・浅井の大軍を小勢で押し返す活躍を見せる。ただこの時、織田家中のほかの武将たちも各所で敵と対峙しており、可成たちを救う援軍は見込め無かった。そして同20日、宇佐山城の戦いで朝倉・浅井連合軍に敗れ、信長の弟・信治らと共に可成は討ち死にした。
わずか数日ながら、可成が少数の兵で大軍を引き付け時間を稼いだことが有利に働き、織田軍はこののち反撃に出て朝倉・浅井連合軍を打ち破っている。最期まで信長を助けた死に様だった。

可成の子供たち

十文字槍の名手として知られ、「攻めの三左」の異名を持っていた可成の死を、信長は深く悲しんだと伝わっている。

享年48の可成には多くの男子がいたが、長男の可隆は父の死の3か月前に初陣で命を落としたばかりで、森家の後継者はみな幼かった。それでも信長は13歳だった次男に自分と可成の一字ずつを与えて長可と名乗らせ、重臣の列に加えると、長可の弟たちは小姓としてそばに置いて育てた。有名な森蘭丸(乱丸)は、長可の弟である。

子供たちを厚遇した姿勢からは、信長の可成への信頼の高さがうかがえる。歴史に「もし」は無いとはいえ、可成が生き延びていれば、柴田勝家や丹羽長秀と同等かそれ以上の重臣になっていた可能性は十分にあった。現在森可成の知名度は高くないが、存命中は織田家中で大きな存在感を放っていた人物だったと言っていい。

可成の子・乱丸は、弟の防丸、力丸と一緒に本能寺で信長に殉じた。家督を継いだ森長可も、天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで27歳という若さで討ち死にしている。彼らの弟の忠政だけが長命を保ち、江戸幕府において美作津山藩の初代藩主となって、明治まで森家の血脈をつないだ。





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