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「堀秀政」信長の馬廻衆の中でもかなり好戦派!?

信長に寵愛を受けたエリート武将の堀秀政。信長死後も秀吉の下で出世街道を突き進んだが、秀吉の天下統一を目前にして謎の死を遂げた彼の生涯を追う。

信長の寵愛を受ける

秀政は天文23年(1553年)美濃国で堀秀重の嫡男として誕生した。

父秀重ははじめ美濃の斉藤道三に仕え、次いで織田信長に仕えて近江坂田郡に3000石を与えられた。そうした中、秀政は一向宗の僧となっていた伯父・堀掃部太夫のもとで過ごしたとされる。
彼は幼いころより頭も顔も良かったと言われ、信長に寵愛されていたらしい。はじめ織田家臣の大津長昌や木下秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕え、のちに信長に見出されて小姓に取り立てられるのである。一説に、信長が秀政を見るや「その綺麗な子をワシによこせ」と言って信長に仕えるようになったという。

信長が足利義昭を奉じて上洛し、15代将軍にしたのが永禄11年(1568年)。同時に16歳の秀政が将軍義昭の仮住まい普請奉行を任されている程だから、その俊才ぶりは間違いない。その他にも建築工事の責任者や外交の使者など様々な仕事をこなしていたという。

馬廻でありながら、合戦でも大きく貢献

織田勢力の拡大にともなって、信長自身が合戦で直接指揮することも少なくなると、馬廻衆の活躍の場はほとんどなかった。 しかし、馬廻衆の身であっても秀政だけは合戦で多くの活躍した姿がみられるようになる。

天正5年(1577年)には高い軍事力を持った傭兵集団・雑賀衆の討伐が実施されるが、このとき馬廻衆で秀政だけが信長本陣から離れ、佐久間信盛・羽柴秀吉らとともに一隊を率いて敵陣を襲撃しており、翌年の有岡城の戦いでは万見重元や菅屋長頼らとともに鉄砲隊の指揮を任されてもいる。
天正7年(1579年)には信長の摂津出陣に従軍し、その後前田利家ら越前衆が応援にくると、秀政は越前衆とともに別所氏の播磨三木城攻めに駆り出された。ただ、このときの秀政は合戦に参加したわけでなく、検使の役目だったとみられている。

信長の二男である織田信雄が総大将となった天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱の際には、秀政は近江衆を率いて信楽口から進軍し、合戦の勝利に貢献した。
このように近習として信長を補佐するだけでなく、一武将として見事な働きをしているのである。その戦いの働きぶりもさる事ながら、先に述べた政治や外交手腕など文武両道を遺憾なく発揮して、同年に近江国坂田郡に2万5千石を与えられている。

その実力は信長の腹心である丹羽長秀と比較されるほどに優秀だったとされる。長秀の通称は五郎左衛門尉といい、信長からは「米五郎左」と言われていた。お米は毎日の生活で欠かせない貴重なものであり、長秀も米同様に欠かせない存在として評されていた。 その長秀と同じように秀政も「名人久太郎」と言われ、そこから名人と言われるようになった。

本能寺の変以後

天正10年(1582年)には本能寺の変が勃発。このとき秀政は秀吉の軍監として備中国(現在の岡山県西部付近)に出兵していたが、信長の死を知って中国大返しを敢行する秀吉軍に合流している。
信長の弔い合戦となった山崎の戦いでは明智光秀の討伐に並々ならぬ強い思いがあったに違いない。秀政はこの合戦で高山右近とともに先陣を務めており、光秀の援護にきた従兄弟の明智秀満を坂本城に追い込んで自害させているのである。

その後は秀吉に従い、柴田勝家派と秀吉派による天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いや、翌天正12年(1584年)の小牧長久手の戦いでも一貫して秀吉方として参加。天正13年(1585年)の紀州攻めや四国攻めで武功を立てると、その恩賞として丹羽長秀の遺領である越前国北ノ庄18万石を拝領。同年に秀吉が関白になってからは従四位下・侍従兼左衛門督に叙任されるなど、ますます忙しくなってきた。

豊臣政権による天下統一戦は続き、秀政は天正14-15年(1586-87年)の九州征伐でも先鋒を務め、天正18年(1590年)の小田原征伐にも当然のごとく参加した。 しかし、この戦いの最中に突如として病気にかかり、天下統一の世をみることなく陣中で急死となった。享年38。

エリート武将の突然の死は色々な疑惑を残したまま謎に包まれている。北条家の刺客に暗殺された、秀政の出世に嫉妬した他の武将たちに毒を盛られたetc… 数々の陰謀論が飛び交っているが真相はすべて闇の中である。





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