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「比叡山焼き討ち」延暦寺も例外じゃない!神仏を恐れぬ信長の驚愕の仕打ち
──元亀2年9月(1571年)

信長比叡山を焼く/絵本太閤記 二編巻六

焼き討ちの背景

上洛後には敵が次々と増えていった織田信長。三好三人衆にはじまって浅井・朝倉・本願寺勢力etc...。彼が比叡山を焼き討ちにしたのは、比叡山に籠もった浅井・朝倉連合との戦いがきっかけにあった。

元亀元年9月(1570年)、信長が三好三人衆の籠もる摂津の野田・福島を攻めていたとき、本願寺勢力が突如蜂起して三好方に加担。さらに、これに乗じて越前の朝倉義景と北近江の浅井長政が京をめざして南下してきたため、信長は、京が敵の手に落ちた時の影響を考えて陣を払い、京へ撤退となった。(野田・福島の戦い)

信長が引き返してきたことを知った浅井・朝倉連合は決戦を避けようとして比叡山に後退し、そのまま籠城することに。信長は比叡山を包囲して長期の包囲戦がはじまることになる。(志賀の陣

この長期戦で、信長は延暦寺に対して焼き討ちを警告していた。
「自分に味方をするならが、織田領の延暦寺領を返還しよう。出家の道理で一方のみに味方できないなら、せめて中立を守ってほしい。もしもこのまま浅井・朝倉方に加担するなら延暦寺は焼き討ちにする」と・・。だが、比叡山からの返事はなく、結局は両陣営の対陣が長期化。その間にも伊勢や尾張で一向一揆の攻撃を受けるなど、各地の織田領で情勢が悪化したため、信長はやむなく朝廷と将軍義昭を動かして講和となるのであった。

当時の比叡山の僧は、修学を怠り、金銀の欲や色欲に溺れるなど、好き勝手な振るまいをしていたという。

そして翌元亀2年(1571年)に入り、信長は浅井・朝倉・本願寺勢力ら反織田勢力に反撃を開始していった。
正月には秀吉に大坂から越前に通じる海路と陸路の封鎖を命じている。これは大阪の石山本願寺と越前の朝倉義景や越前一向一揆との連絡の遮断をねらったものである。また、2月には孤立していた近江・佐和山城が降伏し、丹羽長秀が入城となる。
5月6日には浅井軍が横山城まで攻め寄せてきたが、秀吉がこれを撃退している。また、12日に信長は伊勢長島の一向一揆を討つべく、兵を派遣したが、これは失敗に終わっている。

いよいよ比叡山の攻撃に出陣するが・・

そして8月18日、いよいよ信長は岐阜を出陣、近江・横山城に着陣した。この出陣の狙いは南に位置する比叡山焼き討ちにあったが、はじめに浅井・朝倉氏を牽制するなど、比叡山の攻撃までにかなりの回り道をしている。


比叡山焼き討ちの前日までの信長の行動は以下。

  • 8月26日、横山城を出発して北上し、小谷城と山本山城の中間地点に着陣。
  • 同27日、越前との国境に近い余呉・木ノ本近辺を放火し、横山城へ戻る。
  • 同28日、一転して南へ進み、丹羽長秀の守備する佐和山城に入る。
  • 9月1日:信長は佐久間信盛柴田勝家・丹羽長秀らに小川城・志村城攻めを命じる。両城の城主はいずれも六角氏に従っていた神崎郡の国衆。先に志村城を陥落させ、小川城は降参。
  • 同3日:金森城を攻める。ここは南近江における一向一揆の最大の拠点。
  • 同11日:金森城を攻略。信長はさらに南へ軍を進め、三井寺近辺に着陣。

焼き討ちの経過・結果

そして12日、信長は早朝に軍を坂本まで進ませると、ついに比叡山への攻撃を開始した。その惨状は『信長公記』が詳しいので、その一部をとりあげてみよう。

  • 根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂・神社、僧坊・経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞の湧き上がるごとく、無惨にも一山ことごとく灰燼の地と化した。
  • 山下の老若男女は右往左往して逃げまどい、取るものも取りあえず、皆裸足のままで八王寺山へ逃げ上り、日吉大社の奥宮に逃げ込んだ。
  • 僧・俗・児童・学僧・上人、すべての首を切り、信長の検分に供して、これは叡山を代表するほどの高僧であるとか、貴僧である、学識高い僧であるなどと言上した。
  • そのほか美女・小童、数も知れぬほど捕らえ、信長の前に引き出した。
  • 悪僧はいうまでもなく、「私どもはお助けください」と口々に哀願する者たちも決して宥さず、一人残らず首を打ち落とした。
  • 哀れにも数千の死体がごろごろところがり、目も当てられぬ有様だった。

出典:「現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 」

聖域として崇められてきた比叡山はみる影もなく焼かれ、女性・少年でさえも首を切られたというのだから、まさに想像を絶するような地獄絵図だったのだろう。その死者は史料によってまちまちだが、1千余とか、3千~4千人と言われている。
なお、近年の発掘調査によると、山上であまり焼かれた形跡が見られないという。この頃、堂舎の大半は既に坂本に下りていたということらしい。

『言継卿記』を見るかぎり、山上の放火は15日まで続けられたようだ。一方で信長はこの間の13日にも小姓・馬廻だけを率いて上洛し、将軍や天皇にこの一件を報告。だが、将軍・天皇から特に抗議は受けなかったとみられる。そして20日、信長は美濃の岐阜に帰陣した。

焼き討ち作戦が終了すると、信長は延暦寺・日吉神社の所領をことごとく没収し、南近江の将、すなわち明智・佐久間・柴田・丹羽・中川重政の5人に分配している。


逸話:焼き討ちに反対する重臣ら(『名将言行録』)

比叡山焼き討ちの直前、佐久間信盛ら重臣が信長を諌めようとしたエピソードが『名将言行録』に伝わっているので、以下に紹介しよう。

信長が比叡山を焼き討ちにする旨を家臣に伝えたとき、佐久間信盛が信長を諌めようとして言った。

佐久間信盛

比叡山は桓武帝( =桓武天皇)がこの寺々を創建なさってから幾千年もの間、王城の鎮めでございました。それゆえ古から今にいたるまで誰一人とて、この寺を犯した者はおらぬのです。それを滅ぼしなされたらどうなることでござりましょう。

家臣アイコン
織田信長アイコン

信長

おぬしらはなぜわしの邪魔をするのだ!わしはこの国の国賊を取り除こうと言っておるだけであろう!

織田信長アイコン

信長

わしは天下の乱を鎮めようと王の道の再興のため、身命を惜しまずに1日足りとも心安んじたことはない。
昨年に摂津を攻め、まさに両城が落ちようとしているときに浅井と朝倉が兵を挙げ、わが方の後ろをうかがった。

重臣たち

重臣ら:・・・・・・。

家臣アイコン
織田信長アイコン

信長

わしは両城をそのままにし、浅井・朝倉を山上の城中に押しあげてそこで滅ぼそうと人を遣わし、僧たちを諭した。

織田信長アイコン

信長

そして、かくかくしかじか・・・・・で僧らに丁寧に説いたが、その結果はどうだ?
奴らはこれでも従わずにしきりに凶徒を助け、我らの前に立ちふさがって抵抗したのだぞ!これは国賊という他にない!!

重臣たち

重臣ら:うっ・・・・・

家臣アイコン
織田信長アイコン

信長

よいか!いまこれを刈りとっておかねば、憂いを天下に残すことになるであろう。また、奴らは僧の掟を犯し、禁じられたものを食し、妾を持ち、さらに誦呪(=仏事で陀羅尼 (だらに) などを唱えること)を無用として行なわないと聞いておる。

それでいかにして国を鎮めることができるのか。取り囲んで焼き払い、奴ら一人たりとも生かしておくな!

重臣たち

重臣ら:うううっ・・・・・

家臣アイコン


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