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「平手政秀」若き信長を補佐するも、最期は謎の切腹。

平手政秀は日本人なら誰もが知っているであろう織田信長や、その父・信秀に仕えた織田重臣である。その最期は自害で終えたとされているが、その理由も諸説あるようだ。

外交・文化面に非凡な才

平手政秀は『尾張群書系図部集』によれば、延徳4年(1492年)5月10日に誕生したとされる。信長誕生以前から織田信秀の重臣として活躍し、主に外交面で手腕を発揮。また、文化人としての顔も持ち合わせ、現存する『歴名土代』の編纂者で知られる山科言継からも賞賛を浴びるほどに、文化に造詣が深かった人物のようだ。

それら政秀の人物像を象徴するエピソードがある。天文16年(1547年)頃、信秀が美濃の斎藤道三、駿河の今川義元らとの争いが激化していたときの話である。

あるとき、美濃斉藤氏との合戦のために城を空けていた信秀の留守をつき、清州織田氏が城下に火を放つという宣戦布告に等しい行動を取ってきた。しかし、斉藤氏と今川氏との戦いで手一杯だった信秀はこれ以上敵対勢力を増やすわけにはいかなかった。そこで政秀は清洲織田氏の実権を握っていたとされる坂井大膳と交渉し、その優れた外交力によって何とか和睦講和へとこぎつけたという。
また、その和睦を祝う書状をしたためた際、政秀は紀貫之の有名な詩歌を添えたとされ、その文中の春という語句を和睦に置き換えたとされる風雅な書状は見事な物であったという。

大うつけ信長の教育係

政秀が「うつけ」として悪評を買っていた青年期の信長の傅役を務めていたことは有名であろう。

天文3年(1534年)に信長が誕生すると、政秀は次席家老の地位に着き、同時に信長の傅役にも任命されている。傅役というのは要するに教育係のことで、戦国時代にその家の大事な嫡男の傅役を任されるということは、相当の信頼を得ていた証拠でもあった。この事から昌秀は信秀から厚く信頼されていたことがうかがい知れる。

政秀は天文16年(1547年)には信長の初陣を後見役として全う。翌天文17年(1548年)にはしばらく争っていた斉藤氏との和睦を成立させ、その和睦の証として信長と道三の娘・濃姫との結婚話をまとめ上げている。これはいわゆる政略結婚であったが、こうした政治的背景を含む一方、政秀はこの婚姻で信長の傾奇ぶりが直ることを期待していたという説もあり、教育係としての政秀の真面目で思いやりのある性格が伺える。

政秀の最期。切腹の理由は?

信秀が死去してまだ間もなかった天文22年(1553年)閏1月13日、政秀はその後を追うかのように、切腹してその生涯を終えた。切腹の理由は諸説あるが、その中で有名な2つの説を紹介しようと思う。

1つ目は信長の素行が悪すぎたために、命を掛けて諫めようとしたというもの。平たく言うと、「私の言うことをあなたが聞いてくれないので、私の命を捧げる代わりにこれからは愚かな行動を慎んでください」ということである。しかしながら実際のところはこの説を裏付ける書物は発見されておらず、話としては面白いが信憑性にはやや欠ける。

2つ目は、政秀と信長が不和になり、信長の実直でない様子を恨んで自刃したというもの。これは『信長公記』の首巻にも記されている。政秀の息子・五郎右衛門が信長から自身の馬を献上するように要求されるが、これを拒否したため、信長の恨みを買ったことがきっかけだったという。
これは、成り行きとして面白みには欠けるが、色々な史料で伝わっている信長の性格と合致する話だ。切腹理由としても、信長の非行を昔から目の当たりにしている政秀からすれば、不条理な凶刃が息子や家族に向けられるのを防ぐために仕方が無かったと考えれば、十分に理解もできる。

結局、事の真相はわからないが、"自刃した" という部分では共通しているので、政秀が切腹で命を絶ったこと自体は事実なのかもしれない。

政秀死後のエピソード

※『名将言行録』より

信長がすでに幾内を平定し、日々その勢力を拡大させていたころのこと・・・。

----信長の居所----

近臣ら

近臣A:我らがこのように強大になられたことも知らず、平手政秀が自害したのは短慮でしたな~。
近臣B:ハハハッ、全くそのとおりでござるな~。

家臣アイコン

近臣らがへつらってこのように言うと、信長は顔色を変えて激昂した。

<a href='https://sengoku-his.com/nobunaga'>織田信長</a>アイコン

信長

今こうしてわしが弓矢を執れるのは、政秀が諌死したことによるものだ!!

近臣ら

近臣たち:ひいっ!?

家臣アイコン
織田信長アイコン

信長

わしが己の恥を悔やんであやまちを改めたからこそなのだ!!

近臣ら

近臣たち:ひぃぃぃぃぃっ~~!!

家臣アイコン
織田信長アイコン

信長

古今に比類なき政秀をそのように思う貴様らの気持ちがこの上なく口惜しいわ!

近臣ら

近臣たち:ひぃぃぃぃぃっ~~!!

家臣アイコン

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そして、信長は事に触れるたびに政秀のことを思い出すことがあった。

鷹狩りなどにでかけたときは、鷹が取った鳥を引き裂いては、その一片を「政秀、これを食べろよ」と言って空へ向けて投げ、涙をうかべることもしばしばあったという。





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