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「六角義賢(承禎)」近江守護・六角氏の当主

戦国武将の中には一時期の活躍が有名なものの、その後の生涯が知られていない人物が多くいる。六角義賢もその一人で、京都掌握を目論む織田信長の前に立ちはだかったのは知られているが、その後長く存命だった事を知る人は少ないだろう。その生涯とはどんなものだったのだろうか。

中央政界にも関わる名門の当主

義賢は大永元年(1521年)、鎌倉時代にさかのぼる名門六角家の嫡男として生まれた。

六角家は宇多源氏佐々木氏の流れを組む家系で、戦国時代には南近江を支配しながら、近江国の守護を務め、京都の中央政界とも深い関わりを持った一族である。父定頼の代から京都室町幕府の細川家と三好家の対立に関与し、細川晴元を助けて三好長慶と戦っている。

天文18年(1549年)6月の江口の戦いでは、義賢は1万の軍勢を率いて参戦したが、この戦いの帰趨は三好長慶側に決した。翌年には三好長慶による三好政権が誕生となり、京都は基本的に長慶が支配するところとなり、六角氏は中央での戦いで苦戦を強いられていく。父とは共同統治体制で南近江を支配し、天文21年(1552年)の定頼の死去により、義賢が正式に六角氏15代当主となった。

一時は浅井家を配下に置くも…

当主を継いだ後も中央政界での勢力図は変わらなかった。義賢は政権奪取を図る足利幕府13代将軍の足利義輝や細川晴元を支援して三好家と戦うが、三好家の勢力拡大に押されて徐々に弱体化していった。ただ、永禄元年(1558年)北白川の戦いでは、将軍義輝と長慶の和睦調停を成功させているので、それなりの影響力は保ち続けていたたようである。

その一方で近江国内では、北近江に台頭してきた浅井家との戦いに勝利し、浅井家を従属的な立場に置くことに成功している。 翌永禄2年(1559年)には浅井との従属関係を強調するために、浅井久政の嫡男・猿夜叉丸(のちの浅井長政)に義賢の一字を与えて、"新九郎賢政" と名乗らせ、六角家臣・平井定武の娘を娶らせた。
なお、同年に義賢は箕作城に隠居して出家し、"承禎(じょうてい)" と号している。嫡男義治が15歳で跡を継いでいて、父定頼と同じ共同統治体制を取ろうとしたものと考えられるが、結果的にはうまくいかなかった。

隠居して家督を譲った翌永禄3年(1560年)、長政が六角氏への抵抗を始め、その緒戦の野良田の戦いで義賢は大敗北を喫してしまう。浅井家は六角氏を離れて独立し、近江での優位は崩れてしまった。こののち、かつて敵対していたという斎藤義龍とも同盟関係を結び、浅井氏と度々戦端を開くも、挽回は出来なかった。

観音寺騒動で衰退の道へ

永禄4年(1561年)からは、京都への出兵を繰り返している。長慶が政治に倦んでその支配力が落ちてきたことが遠因で、11月の将軍山城の戦いに勝利して三好氏を京都から駆逐した。さらに翌永禄5年(1562年)の3月には、義賢自らが京都に入って洛中を支配。ただし義賢の京都支配はわずか2か月ほどで、長慶と和睦して近江へ帰還している。この頃は六角氏だけでなく三好氏や細川氏も、繰り返した政争で疲弊し切っており、室町幕府の中央政権を実効支配する余力は、六角氏に無かったとみられる。

繰り返される出兵で、六角氏の内部に不満が高まっていた中、永禄6年(1563年)、当主を継いでいた義治が、重臣の後藤賢豊を居城の観音寺城で暗殺してしまう事件が勃発する。これは観音寺騒動と呼ばれ、六角氏衰退の直接の契機となっていく。

賢豊は義賢の信頼厚い家臣であり、その賢豊を殺害してしまったのは、義治と義賢の親子間の確執があったためとも言われる。浅井氏や三好氏との苦戦が続く中で、共同統治体制が破綻した可能性や、六角家内部の家督継承問題も騒動の原因に挙げられている。

この騒動の結果、かなりの家臣が六角家を離れていった。義賢・義治父子は残った家臣からも距離を置かれ、一時的には観音寺城を追われてしまったという。その後、重臣の蒲生定秀・賢秀父子の仲介によって復帰するが、同時に義治の弟に家督を譲らされるハメとなった。六角氏の弱体化は明らかで、京都へ出兵する余力もなくなり、浅井氏の攻勢に対処するのが精一杯となった状況で信長の上洛を迎えることになるのである。

信長との戦いで…

永禄11年(1568年)信長が足利義昭を奉じて上洛の途に就くと、義賢は観音寺城に立て籠もって抗戦の構えを取った。しかし六角氏の求心力はすでに失われていたのか、9月12日の観音寺城の戦いで呆気なく敗れ、義賢は領内奥地の甲賀郡へ逃げ延びることに。

その後は、浅井氏や朝倉氏、比叡山延暦寺、三好三人衆らと連携した反信長連合軍にあって、南近江でゲリラ的な抗戦を展開していく。元亀元年(1570年)6月の野洲河原の戦い、11月の志賀の陣では、織田軍主力の佐久間信盛柴田勝家らを苦しめ、また元亀3年(1572年)正月にも琵琶湖南部に出兵し、一向一揆と共同して織田勢と戦っている。

元亀4年(1573年)4月、義賢は琵琶湖東部にまで進出し、鯰江城に入った。東方から織田家を圧迫していた武田信玄の進軍と相呼応した動きで、信長とその宿将らが城を攻めるもこれを守り抜いている。しかし、ここで信玄病死の報が畿内を駆け巡り、状況は一変していった。

東の武田の脅威が取り除かれた信長は、浅井家を滅ぼして一気に北近江を制圧する。そのまま南近江にも攻め寄せ、同年9月に義賢が拠る甲賀が攻撃にさらされた。一度はしのいだものの、翌天正2年(1574年)4月には義賢の入った菩提寺城と石部城が陥落して、戦国大名としての六角氏は滅亡した。義賢は城を落ち延び、信楽に逃げている。

晩年は秀吉のお伽衆に

そののちの義賢の動向ははっきりしない。甲賀や伊賀に潜伏したとも、石山本願寺に匿われたとも言われる。信長が本能寺で倒れる前年の天正9年(1581年)にキリシタンの洗礼を受けているが、その経緯も不明である。

秀吉が天下を取ると、御伽衆になった。お伽衆とは秀吉に請われて話し相手を務める役柄で、実際は没落した名門の生き残りが多い。御伽衆になるまで約10年は流浪していたと思われるが、名門の出自と弓術・馬術の名人だったことが幸いしたのかも知れない。義賢は天文年間に日置流の弓術を学んでおり、馬術は佐々木流の創始者となった。義治も秀吉の子である豊臣秀頼の弓術指南に就いている。78歳と長生きし、没したのは慶長3年(1598年)の3月14日で、秀吉の死の5か月前のことだった。

なお、子の義治は慶長17年(1612年)まで生き、その子孫は加賀藩士となっている。


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