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「氏家卜全(直元)」西美濃三人衆の中で最大勢力を誇った!?

氏家卜全は西美濃三人衆の一人であり、織田信長の天下統一戦争に加わった一人として戦国史に登場してくる人物である。美濃斎藤家の有力家臣から、信長に与して各地を転戦した卜全の生涯とは?

西美濃三人衆の一人

氏家卜全(ぼくぜん)は、本名を直元と言い、"卜全" というのは出家後の名乗りである。はじめ織田信長に敵対し、のちその配下に加わって活躍した西美濃三人衆の一人として広く知られている。
彼は永正9年(1512年)の生まれとされるが、正確には分からない。美濃の国人衆の中でも強大な勢力を誇った氏家氏の12代目当主で、西美濃三人衆で最も広い領地を持っていたと伝わる。美濃の有力武将の一人だったのは間違いない。

始めは美濃の国主・土岐頼芸に仕えた。頼芸が下克上で斎藤道三に取って代わられると、稲葉一鉄安藤守就の西美濃三人衆と一緒に道三に仕えている。弘治2年(1556年)に道三が息子の斎藤義龍と争った時には、義龍に付いて道三を滅ぼした。尾張の信長は道三の娘婿で同盟関係にあったから、義龍と信長は敵対。義龍配下の卜全たち西美濃三人衆も、こののち10年以上に渡って信長と各所で激戦を繰り広げていく。

信長に臣従し、各地を転戦。

永禄4年(1561年)に主君の義龍が病死し、その子の龍興が家督を継ぐと、卜全ら西美濃三人衆は美濃の国政から遠ざけられたようだ。三人衆は美濃の代表的勢力として尾張の織田勢と戦いつつも、それぞれ龍興に対して不満を強めていったらしく、特に卜全は龍興と不仲であったと伝わっている。
こうした中、卜全ら三人衆は永禄10年(1567年)に龍興を見放して信長に降った。即座に攻め寄せた信長によって美濃国は制圧されて龍興は逃亡。美濃は織田家の領地となり、卜全も織田家の家臣となったのである。

長年にわたり、信長を苦しめてきた卜全ら三人衆だったが、斎藤家を見限って織田家に降った功績が認められ、有力武将の地位はそのままに織田軍に加えられた。永禄11年(1568年)の上洛では、三人衆揃って美濃衆筆頭として扱われている。以後、織田軍内で卜全・一鉄・守就の3人は行動を共にすることが多くなり、これは卜全の死まで続いた。永禄12年(1569年)の伊勢大河内城の戦い元亀元年(1570年)姉川の戦いなどで、一軍の大将として活躍している。

卜全の死、一族のその後

織田軍の中で確固たる地位を築きつつあった卜全だったが、元亀2年(1571年)の伊勢長島一向一揆で討ち死にしてしまう。柴田勝家が大将を務めたこの戦いでは、織田軍に多大な損害が出ている。最も危険な殿軍を任された卜全もまた、危地を脱することが出来なかった。享年は38、または59との説がある。20歳以上も違いがあるが、後を継いだ息子の氏家直昌の生年も不明なため、はっきりしない。

子の直昌は信長に仕え、美濃から逃亡していた斎藤龍興を討つなど活躍している。直昌の後を引き継いだ弟の行広は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いたため領地を失い、慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも豊臣方の将となって徳川に敵対し、大阪城の落城と運命を共にした。





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